「黒澤止幾生家」保存活用事業 寄付のお願い

「黒澤止幾生家」保存活用事業に対するみなさまからのご支援ありがとうございます。

 引き続きよろしくお願いいたします。

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「黒澤止幾生家」は、幕末勤王の女傑、さらには我が国最初の小学校女性教師の一人とも言われる黒澤止幾が生まれ育ち、活動の拠点とした場所で、平成28(2016)年に城里町指定文化財(史跡)となりました。しかしながら、生家は止幾が誕生した文化3(1806)年以前の建築物で、内外部ともにかなり傷みが進んでおり、早急な対応が必要となっていました。令和2(2020)年に生家と周辺一帯を整備する「歴史民俗資料館(黒澤止幾生家)保存活用計画」が策定されたものの、費用面などが大きな課題となり、ここ数年進まない状況が続いております。

今回、城里町が令和3(2021)年から活用している「ふるさと納税」を利用して資金を集め、段階的に計画を進めていきたいと考えています。地域教育に尽力した止幾の拠点を後世に残していくため、地域の文化財保存に賛同いただける方々からのご支援を期待しております。どうぞ、よろしくお願いいたします。

 

黒澤止幾(くろさわ とき)について

黒澤止幾肖像写真文化3(1806)年、現城里町錫高野に生まれた黒澤止幾は、水戸藩9代藩主徳川斉昭の雪冤行動により、のちに幕末勤王の女傑と呼ばれ、また、学制発布後は、我が国最初の小学校女性教師の一人ともなった人物です。生家は代々修験道場で、寺子屋も開いており、止幾も幼少より祖父から訓育を受け、現常陸太田市に嫁ぐも夫と死別し、実家に戻ってのちは行商等で生計を支えながら各地の文化人と交流し、知識と教養を得るとともに自己の思想を形成していきます。安政6(1859)年、徳川斉昭は内政・外交の両面で大老井伊直弼と対立し、謹慎に処せられていましたが、その雪冤のため、止幾は54歳で単身京へ上り、天皇への長歌の献上を試みるも、安政の大獄の只中で大坂で捕えられ、江戸送りとされたのち、中追放に処せられました。その後、帰郷のかなった止幾は、家塾を再開し、明治5(1872)年の学制発布後、自宅を錫高野小学校として代用することを受け入れ、自身も68歳で小学校教師となります。止幾が「女性教師第一号」といわれるゆえんですが、翌年教師を辞してのちも、明治23(1890)年に85歳で歿するまで、生涯にわたって地域の教育に尽力しました。なお、明治7(1874)年には、明治政府より終身扶持米十石を下賜され、死後明治40(1907)年には従五位を贈られています。

 

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  • 【更新日】2026年5月29日
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