城里町勢要覧 2006(平成18)年 2月
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“茨域父通茨城線茨城鉄道線は天正1錘に蒜二舌れ大正巧年加月型日に赤塚l石塚間が開業。続いて昭和2年2月弱日に石塚l阿波山間、さらに同年3月調日に阿波山l御前山間が開業して全通しました。その後、昭和四年に水浜電車、湊鉄道と合併し「茨城交通」が発足しました。地域の人々の重要な交通機関として活躍してきましたが、訴えた長歌を朝廷に献上幕府にとらえられてしまいました。その後実家に戻り、明治5年に学制が発布されると自宅を小学校教場として開校。日本で初の女性教師となりました。錫高野には止幾子の生家が残っています。鵬タングステン麺年高取山のふもとでタ、》グステるとうンの露頭が発見されると、本格的な鉱山開発が開始されました。「高取鉱山」と呼ばれ、採掘が最盛期を迎えたのは大正初期の第一次世界大戦中です。その後、昭和印年、月末に操業を停止し、翌年2月に休山しました。代となり、峠昭和劉年に石塚l御前山間、鐙年に大学前(茨城大学)l石塚間が廃止となり、妬年に全線が営業廃止となりました。高度成長期を迎えこと自家用車の時代となり、鉄道利用者は年々減少。たか』・‐高取山では江戸時代からTf.錫採掘が盛んで、明治に入ると民間の鉱業所が操業するようになh〃ました。明治こうとがわ細皇都川蝿うなぎ地蔵星う皿.。{てん一異.皇都川の名は、孝謙天皇女帝とゆけのどう0上う弓削道鏡の悲恋伝説に由来します。孝謙天皇は、失脚して下野に流された道鏡を追って東国に下向しました。そして那珂川を下ってこの地に着き、移り住みました。そのことから、土地の名を「皇都」、山の名を「御前山」、裾を流れる川を「皇都川」と呼ぶようになったといわれています。皇都川こうばう繕いしには弘法大師にまつわる伝説も残り、弘法大師の踏止め川とも呼ばれています。しもふるうちせいおんじ伝説によると↑下古内の清音寺に大変まじめな小僧がいて、毎日ご本尊に赤飯をお供えしていました。あり宏うだんふちる日、殿様の佐竹公が龍潔淵で釣りをしていると、大きなウナギが釣れました。家来が料理しようとすると、腹から赤飯が出てきました。ちょうどそのころ小僧がいなくなったので、小僧はウナギの化身ではなかったかと言われるようになり、供菱のためうなぎ地蔵を建てたといいます。蝿弘法大師の伝説やつがめさん獅八瓶山の8つの瓶この地域の伝承・伝説には弘法くうかい夫肺空海にかかわるものが多く、下し郡ごぶつこくじとくら古内の岩谷堂、塩子の仏国寺、徳蔵‐と〃、毎卑分夕加》の徳蔵寺などに、さまざまな話が伝わっています。弘法大師と徳蔵姫の悲恋伝説の地は、現在は荻原屋敷遺跡として整備されています。また、赤沢、ふんどめ、鶏足山、鶴井戸、亀井戸などの名前は弘法大師に由来するとされています。八瓶山(標高345メートル)の山かめ頂には8つの瓶が円形に埋められてやまたのおらちいます。ここは八岐大蛇伝説の地で、スサノオノミコトが蛇に酒を飲ませるために8つの瓶を用意したという話が伝わっています。他に、瓶の水が干ばつから人々を救ったという伝ふた説もあります。実際に小さな蓋を開けると水が入っており、今もこの瓶の水を棒でかき回すとふもとの村に雨が降るといわれています。一一一
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