広報かつら No.333 1998(平成10)年 2月
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れた尊接派、一橋派の人びと は、はじめからの考えを貫く ため、孝明天皇のおことばを 仰いで、それによって直弼の 権力を奪い、幕府政治を改造 しょうとするか、最後の手段 として直弼を暗殺するかの二 っの方法を秘密のうちに進物 ていた。前者はいわゆる〝戊 ご 午の密勅“といわれうもので ちょくl}しよ、つ 〝勅壷(勅命)″という形で同 年八月八日、水戸藩の京都留 うかい 守居役鵜飼吉左右衛門とその 子幸吉に正式の手続きをふま ず尊擾派公卿の手から渡され た。幸吉はこれをひそかに隠 し持って、江戸の水戸藩邸に 下り、その密勅を藩主に伝達 した。同文の勅読は一日遅れ て幕府にも届けられた。 その内容は、孝明天皇の内 意として、時局重大の時に、 幕府役人らのとった内政外交 に関する措置が、適切でない えんきiく ことを娩曲(遠まわしにいう) に述べられ、また斉昭らを処 罰したことについても、いか なる理由かをただすといった ものであって、幕府が姿勢を 正し、三家諸大名の協力によ って、公武合体の実をあげ、 政局の安定を図るようにとの 趣旨がもられていた。そのよ うな勅諒に、水戸藩はとくに、 /( それを御三家はじめ、列藩に も伝達(回達)するようにと の副書があった。幕府は水戸 藩の手で勅諒が他藩に伝達さ れることを恐れ、勅註を幕府 に納めることを命じ、さらに 勅諒降下に暗躍した者をとら え〝陰謀〞の根を絶つことを 決した。同年九月にはじまり、 翌年におよんだ安政の大獄 は、そのために起こったので ある。 有名な尊壌志士の越前藩 士・橋本左内、若狭国小浜藩 士・梅田雲浜や長州の吉田松 陰らが捕らえられ、死罪に処 せられたのはこのときであっ て、水戸藩では密勅に直接関 係の鵜飼父子が死罪、藤田東 とだただあきら 潮や戸田忠敬なきあと永戸尊 壊派の中心となっていた家老 萎繋や茅板伊予之介も死 罪となった。黒沢止幾子が捕 らえられて、中追放の罪に処 せられたのもこの時である。 また、戊午の密勅が永戸藩に もたらした問題は、じつに大 きかった。大老井伊直弼によ る勅読返納の厳命をめぐつ て、保守門閥派の多くは、幕 命に従って返納すべきである という考えに対して、尊撲改 革派は列藩への伝達を主張し て、幕府への返納絶対反対の 立場を固執して、たがいに一 歩も譲らなかった。 以上のような内憂外患、世 情は混沌とした有様であっ た。こうした中で止幾子は国 を憂い、憂憤の心を抑えんと するも抑さえること能わず、 遂に意を決して訴願の義挙を 決行したのである。まさに男 子も及ばざることである。そ こにはいささかの利己私欲と 私心をもたず、五四年の生涯 を生死線上に投げ出して、天 下の憂いを除くため、大麻成 就を胸に二篇の長歌をたずさ え、単身京に上り、天皇に献 上舌のである。一点の曇りも なく心清らかな誠心から発し た許願の義挙であった。 やがて、中追放の罪を仰せ 付けられ九死に一生を得て、 郷里錫高野の地を踏んだの は、安政六年十一月一日のこ とであった。それ以後、伝来 の私塾を復興し、晩年に至る まで約十二年間、十年一日の LL 如く孜々として寺子屋の経営 に従事し、歌道や書道、或は 漢学など求めに応じて、慈愛 に満ちた教育をしていった。 近隣の人びとは勿論、遠くは 那珂郡などからも来るに至っ てら た。名を求めず、功を街はず、 一意専心教育に努めるととも ( に、国家の安泰を祈り続け、 充実した日々を送っていっ た。 また、止幾子の誇らない謙 遜の至徳は、自然と人びとの 敬慕するところとなり、遠近 の有志、自ら訪ね来て、交遊 する者も多かった。止幾子の 同郷の士で歌道の心友である 加藤木喉里・奥州岩手山の神 官 小島春尊・下総布佐の志 士森田善男、下絵佐倉の医者 佐藤舜海、維新の前後におけ る詩人大沼枕山、加倉井砂山 の高弟興野娩堂、栃木県茂木 の旧藩士で漢詩人中村城山、 水戸弘道館歌道掛西野宣明、 茨城県の知事安田定則、茨城 生まれの学者芳野金陵をどが あり、その他多様な人達が、 或は詩文を寄せ、或は親しく 来訪して交際を求め、徳風に 浴する者も数うるに暇なき程 であったという。晩年におけ る止幾子のたつきの営みも、 実に価値多きものがあった。 ここに止幾子の人生の歩み に心をいたすとき、実に波乱 に満ちた生涯であった。小に しては一身一家の生活に窮し た境遇にありながら、大は天 下国家の憂患を除こうとする 大精神をもって、一大活躍を 成し遂げたことである。 人間として「なぜ生きるか」 「そのために何を成すべきか」 というあるべき生き方を求 め、実践しっつ心豊かに一生 を送ったのである。しかも、 それが単なる一時の思いつき や気紛れではなく、終始一貫、 大精神を貫徹するために生ま れてきた観がある。 止幾子の生涯の八五年、そ れは至誠という一念に燃えた 心の結晶であった。ここに止 幾子の偉大さと真骨頂がある のである。自らの心に偽りを 持たず、真実を求め続け、志 を貫徹した高潔にして非凡な 人であったということができ る。 -人は野にありと錐も 道あるを以って 貴しとなす- 本年一月よりNHKの大河 ドラマ 「徳川慶喜」が放送さ れています。 本村出身の黒沢止幾子と徳 川斉昭・慶喜親子との関わり について、お忙しい中を高久 にお住まいの加藤太一郎さん に四回に分けて執筆していた だきました。ありがとうござ いました。 (13)

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