広報かつら No.265 1992(平成4)年 4月
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認諾謹♯詳葦我窪繁謹無窪嘉共嘉或嘉詫選韮耳発光凝耳遠繁曇濃荘韮孝義広報かつら 4月号幸浦(8)載 ながら、一日中歩きまわり、夕 方カラスが山へ帰るのをみて、 「俺も、そろそろ帰らなくち ゃJ」 ひとごとい と独り言を言いながら、那珂 川の上流の山奥の方へと、姿を かくしてしまいます。 だい ある時のことです。大男の大 たら坊は、いつものように背中 かご に大きな篭を背負い、曲がり曲 へんばくつえ あや がった怪しげな、変木を杖にし かみ て、那珂川の上の方から、どし ぢひび ん′.どしん′と地響きをたてな で持ち上 けっこう 那珂川ぞえの西側を、どしん′. どしん′と書をたてながら、ゆ っくりゆっくり歩いてまいりま だい した。この大男の名を『大たら ぎつ 卑 坊』と呼んで、土地の人とはあ まり付き合っではいませんでし た。が、別に悪いことをするわ けでもなく、那珂川の上流の山 奥から、出てきては土地の人々 の暮らしの様子を見、 「俺の力でできることは、お 役にたつんべえー」 と、言って、あるときは道に たおたいばく 倒れた大木を動かして、道を切 り開いたり、またあるときは、 くずヒムきき 山から崩れ落ちて、民家の庭前 ころ に転げ込んだ大きな岩を、両手 人 げ の て 為£動 に か な し る て こ や と つ たり をし に踏んばって、流れる都珂川の 水を、両手ですくい上げ、ぐい ぐいと飲みはじめました。 「うーん、これはうまい。う まい′こ とひとりごとを言いながら、 いっばい のどかわ 「喰が乾いた、もう一杯′」 と………那珂川の流れに両手 を入れようとしたその時、背中 かご に背負っていた篭の中から、こ ころ ろころっと、二つの荷物が転げ 落ちました。そしてその二つは、 くば きたじゅくはちや 北宿と鹿野の間の窪んだところ を、南へゆっくりと転げ進んで、 やっと止まったところには、ぼ っかり二つの小高い丘ができあ がりました。 たて 甫の小高い丘を、館の山と呼 の し 田 ま ん し 込み、 「おお′潅が見えてきたわい、 今日は別に仕事もなさそうだ、 ここらで一休みでもしようかJこ と言って、 かわしも がら、川下の方へと歩いてまい りました。 だい ややしばらくして、大男の大 つか 、 た ら て、 と言いながら眉毛 「 ど つ しヽ し 志よ げ.′ 造営坊 か は 東 左 ぽ た 0 足 の は 申 そ 都 に し 珂 ど て 川 つ だいぶ細れたとみえ の 方を眺めながら ′l1. の し 右 山」 向至り 足 う と は 川か踏j・北 原苦み 宿 おろ に腰を下 きたじゅく ちい び、そして、もう一つの少し小 さい丘は、館の山の手前で止ま てんヒムやま りました。この丘を天神山と呼 のもよ ぶようになったのは後の世のこ 館の山(大山城址) とです。 土地の人たちは、やがてこの とりで 館の山を平和を守る砦として、 むらとり上うふん ぴ お城を立て、村人・良民が安心 しようと願っていたということ しょ/と掛声を掛けながら、川 かみ 上の山奥へと姿をかくしてしま いました。 大男は、二度と姿を見せませ んでした。 その後、里の人たちの手によ って、館の山には桜の木を植、え、 毎年春になると満開の桜の木の 何い様青い 時っ子すた も で の の 、を です。 もど だい 話は戻って、大たら坊の背負 かご った篭の中から転げ落ちてでき まゆげ た二つの丘を、眉毛山に腰を下 なが ろしてじっと眺めながら、大空 きけ に向かって、こう叫びました。 ほる 「美しい山と川、そして塞か こうだいむへん お奉っなばら に広大無辺の、大海原をひかえ かずかず ここに住む数々の人たちが、い かLこくら つまでも仲良く、平和で賢い暮 しができるよう、この二つの丘 を置いてゆく、幸せに暮らせよ /」 さけ ふるきと その叫び声は、故郷の山々に ひび すふ こだまし、里の隅々にまで響き だい 渡りました。大たら妨は、自分 きけ の叫び声が、里の隅々にまで届 お して働けるようにと願い、また もう一つの丘・天神山を、人間 かLこきずまつり の賢さを教え授ける神様をお祀 ゆっくりと立ち上がり よ、つ 様に、よいしょ′.よい かけごえ かわ 聞 き 満足したような
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