広報かつら No.145 1981(昭和56)年 4月
6/10
嵩洋弾※塞粥拭流儀髄髄髄髄髄髄髄牒慄煤壌牒牒儲儲儲儲儲溺灘溜描揺沌 広報かつら 4月号嘉試(¢)祥 ト 北方 綿析沢 山崎めぐみちゃん ト 篠根 平常 加藤木桜子ちゃん四月十五日生 貴道・としのさんの長女 ボクかな?いいえあたいです。 もうすぐ歩けるよ。 政美・せつ子さんの次女 家族みんなのめぐみちゃん。 よろしくネ′ 四月五日生 ≡野管掌く ん 四月二日生 功・綾子さんの長男 “ポクまだj歩けないん7ご 早くお☆市ちゃんと あそぴたいな.〝ケ / つになりました 高根 高根四 加藤はるみちゃん四月十六日生 幸丁満知子さんの次女 あたいお父さんより車の運転 /、■うまいの、ほら手ばなし運転よ。 阿波山 堀の内西 松島大くん 四月十七月生 満男・典子さんの次男 おかあさんといっしょに ■ブンプンにあわせて踊れるよ。 阿波山 新更 加藤木貴史くん 四月十大日生 常男・真由美さんの次男 ■ぼく、もうすぐ歩けるよ/ おおがい 大開観音のある御前山は、 本村大字赤沢北端にあり、那 珂川の清流が麓の岩に渦を巻 いて流れている。非常に景色 がよく、春の新緑、秋の紅葉 と山全体が、京都嵐山によく 似ているので、関東の嵐山と いわれている。 □大開観音 この山を束登山口から登り、 頂上近く右に折れて行くと間 もなく大開観音がある。 新編骨陸国誌御前山の頂に、 「御前山に大関石とて、一丈 ばかりの石に陰門の形、自然 と彫りたる如jものありゾと ある。この自然の石が大開観 音で、戦前は中に未塗りの小 さな観音堂もあったが、今は 何もない。 昔は、子宝に恵まれぬ人、 又子宝に恵まれた人でも無事 出産を出願すれば、いずれも 望みがかなえられたといい、 粟 又この山の水を飲むと精力が増 強されるといい伝えられていた が、今はこの申し伝えさえ知る 人も少.い。 一度この観音を拝んだ人は、 自然の石とはいい、女性の象徴 として立派なものに驚く。こと に雨あがりはすばらしい。山上 には、本丸・一の堀・二の堀・ 鐘撞堂跡がある。 □御前山縁起 御前山縁起「花の幸」には、 孝謙天皇と弓削道鏡についての 艶説が詳しく記されている。そ の中、御前山に関しては孝託天 皇世をすて都を忍び立ち、供数 人と東国に立ち下野の国への御 幸を郵ヤその国境なる常陸国 那珂川のほとり、山水の景色す ぐれた地に、仮の宮居を造りニ: この山より出ずる水を召され、 ますます精力を増強されていた。 後の人、この山を御前山と呼び その居所を皇都と名づけ、この 地を流るる川を皇都川と申すノ とあり、又隣村七会村岩谷山彿 国寺由来岩谷縁起巻上に、「孝 太肝観音と御前山 広 木 守治郎 兼天皇ひそかに関東に巡幸L、 暫く常陸国茨城郡赤沢の丘林に 任す。すなわち御前山これなり。 城郭を営み、関東の諸侯武士 をみらる。又弓削道鏡という僧 当山に釆て、しばらく休息すゾ 岩谷山秘伝巷下に孝談天皇を、 「大開御前又、大開観音というゾ とある。 又常陸古来記に、赤沢村は、 赤沢山といい、古くは里見郷、 寛永十八年より赤沢村といい今 官大納言永義(道照)居住し、 御前様と称したが、後年足利尊 氏攻め来り、里見上皇京都に帰 ると記されている。 男性の象徴は根性様で、各地 に祭られているか、大開観音は 珍らしく御前山が大開観音の所 在地であれば、相対する南の白 山が根性様の所在地で、東登山 口より登れば、戦前は道の両側 に沢山の根性様が祭られていた が、今は見ることが出来ない。又、 先年赤沢罵道改修にもたくさん 根性様が発掘されたことがある。 赤沢は、大開観音と根性様を 相ともに祭る神秘の地であった。
元のページ