広報かつら No.89 1976(昭和51)年 4月
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ら つ 報 広 第89号 はじめに 略称四十五年七月二十九日から 八月二十一日までの二十四日間、 ヨーロッパの主を国々を、更に四 十七年八月三日から二十日までの 十八日間アメリカとカナダの一部 を、そして四十九年三月二十三日 から四月七日までの十六日間、南 イ.ンドとスリランカの各地を前後 三回に分けて研修のため見歩いて 釆ましたが、行く先々で、気候の 追いや民族の相違をどから、いろ 海外リポート H 所 (左)アメリカ滝(遠方力 右手前はナイアガラ市 いろと珍らしいことや、関心した り教えられたりしたことが数多く ありました。その中のいくつかを 皆さんへお知せしてご批評を戴き たいと思い、何回かに分けて書い てみることにしました。よろしく お隣いしますぐ 心の壁、コトバの壁 (アメリカ) ニューヨークの北東約十粁のと ころに、ラ・ガーディア空港があ り、ここから北西のバッファロー 国際空港まで凡そ五十分の機中の ことでした。アメリカの国内線は 指定席ではなくて塔乗の順に自由 に席がとれるので、私は右窓のそ ばに座りました。窓外にニューヨ ーク.の街が小さい模型のように後 方へ消えていくのを、興味深く眺 めていましたが、ふと私の左にア メリカの紳士がいたのに気づきま した。初めのうちは、前席のシー トポケットからガイドマップや週 間詰などを一とり出して、お互いに だまっていましたが、ふと左の耳 元で何か言草らしい音がきこえま した。例の紳士が二コやかに外国 人である私に話しかけるのです。 どうせ詳しい会話が交わせるわけ 二 伶 でもないので、私も単語を並べる だけの心臓でそれに答えました。 「これから特別バスでナイアガラ ヘ清見にいく、今晩はナイアガラ 市のモーターインに泊る、それか らシカゴ、ラスベガス、グランド キャニオン、ハワイを見て、十日 後に日本へ帰る」こんな会話皇父 わすうちにバッファローヘ着いた ので、そのままそそくさと別れた のですが、私の心には、その米人 を通してすべての米国人が、日本 人にはをいものをもっているよう に思えてをりませんでした。ハワ イではワイキキの浜のベンチでも そうでしたが、それは全く初対面 の私と云う外人をつかまえて、長 い知己でもあるかのように、気軽 に話しかける彼等の心の明るさで あって、どうも我々日本人にはこ んを時、必要以上に相手に遠慮し たり警戒したりする心の壁、コト バの壁がありすぎるように思えて なりませんでした。 (次号へつづく) 弔 慶 一月分の出生 部落名 氏 名 三村博幸 粟 上阿野沢関 純子 上阿野沢 桜井正人 保護者 辰 夫 博 信 正 直 粟 死 部落名 赤 沢 北 方 北 方 北 方■ 上阿野沢 下阿野沢 高 久 中山ふよ 二月分の出生 部落名 氏 名 錫高野 鯉渕和幸 上 坪 森田清美 赤 沢 森田幸子 阿波山 長山達雄 北 方 加藤木竜二 庄次 死 部落名 北 方 阿波山 下阿野沢 下阿野沢 下阿野沢 三月分の出生 部落名 氏 名 赤 沢 石崎光男 山本百合子 亡 氏 名 関口いね 加藤木さき 吉川光雄 関根きよ 蓮田ひは 所 よし 亡 氏 名 大畠正行 大畠くら 小林四郎 加藤はな 関 一 保護者 紀 元 清 保護者 忠 雄 八六七八六六八年 三九九七四六二令 八八七八五年 一七三二五令 退 新 動 北 方 赤 沢 上 梓 阿波山 部落名 氏 名 粟 桐原一男 阿波山 贋木道明 上 押 入野こを 阿波山 松島なつ 高 久 仲山ちやう 阿波山 小林 清 下阿野沢 高堀与茂一 下阿野沢 死 人事異動 四月一日付 県職より派遣 指導主事 園部 昌美 職 三月三十一日付 国民年金係長 小林 清啓 四月一日付 保健婦 大場 厚子 採 関根香織 金長昭雄 大津幸枝 小松崎ひろみ 小田部香代子 亡 役 加藤木 幹 博 忠征信 七大七六八七六年 七四四五○七二令 夫勇則一幸

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