広報じょうほく No.406 1996(平成8)年 1月
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虎頭痛養離慮の合戦 その⑧ 文.今 瀬 義 次さん 、 (小堵勢石塚城に入り大山勢と戦 う) 小場三河守と城之介の父子は、 大山城からの使者小田部孫九郎を 大山に帰してから、大山との戦い の用意をした。一族の主な人には いんば 前小屋右京、高橋因播、黒沢小太 ぬいのじ上う 郎、山形佐渡、羽生縫之丞、斉藤 重太郎、江戸長門という面々であ る。この人たちの一亭うことには、 「合戦する時に最も大事なのは兵 士たちの心-⊥」気である。運勢 の多少は二の次であるが、軍勢の 数も多いに越したことはないL。と した。そして、小場城には留守居 を少し残しておくだけとし、主力 は石塚城へ入り石塚義国と組んで 大山軍と戟うことにした。 いざ出陣ということになり、大 将小場三河守父子を先頭にこれに 従う者は前小屋右京之介、黒沢小 太郎、高棒右京之介、高橋道困、 高橋因播、高橋左近、山形佐渡、 斉藤延斉、斉藤重太郎、羽生縫之 丞、江戸長門、江戸善太郎、綿引 内蔵、中川淡路、所善左衛門、山 田織部、山田専之丞、利早王水、 小林対馬、田口豊後、大畠駿河、 下達介之進、佐賀内蔵之丞、平山 三大夫、石井出羽、広木内近、大 場三名州、伊賀大熊、鴻巣、根本、 三山、中島、前部、稲川、三村、 その外に外様の旗本でその勢まと ′11\ めて二百余騎ぐらい。 小場勢は小枚泉をくだり、行人家 を見渡して那珂川の川べりに着い た。雨が多かったので増水し、 渡るのが困難に見えた。その時、 全島七郎兵衛が「なんの、これ位 の水に驚いてはいけないノとまっ 先に川に飛びこみ何の苦もなく川 を渡り、小場勢のすべてが同様に して坪にあがり、石塚城に着いた。 小場三河守は石塚義国、義久と 対面してこのようになってしまっ たわけを話し、「大山家が小田部 孫九郎を再度にわたって使者とし たのは縁起悪い。小場にうらみが あるとしか思えない。こうなった からには、大山城へ攻め入って義 勝の首をとるか、あるいはかばね を戦場にさらすかの外なくここに 参った次第ゾと無念そうに語った。 石塚義国は「この石塚家、それに 小場、大山の三家は皆佐竹家から 分かれ出た家である。佐竹家の幹 から出た三本の枝と同じで、それ ぐらいのことで戦うことはあるま い。もうすこし冷静になりなさいノ と三河守をいさめたが三河守はな かなか聞き入れない。それに大山 でも合戦の準備をしたといううわ さがつたわり、義国はやむなく石 塚の家臣たちを集めて評定に入っ た。 大山では小場勢が石塚城に入っ たことが知れ、石塚城へ押寄せよ ま うと大山城を出発した。御大将は 城主大山義勝と長男源四郎義則。 その日、義則は華やかな緋色にそ めた緒でおどしたよろいを着け、 くわがたを打った龍の頭の飾をつ けたかぶと、金作りのきやまき、 赤地錦の陣羽織、そして黒くたく ましい馬に金のくらを置き、あず さのむちも朱染という華やかな、 りりしいいでたちだった。 大将義則に従って一騎当千と呼 ばれる上杉長門、平沢丹後、大経 信渡等を始めとしてその勢二百余 騎が石塚城を目指して押寄せた。 これに遅れじと高久播磨、桜井庄 太郎、富田修理之介、飯村出雲、 阿久津信濃、高田兵庫、平賀新五 郎、横倉兵部、富田大操、南条岩 戸衛門、大座畑弥五郎、白井万次 郎、関主水、大座畑六郎太郎、小 林豊後、山口半兵衛、飯村右馬之 介、田代遠江、清水大内蔵、田中 源蔵、大山大膳、小野崎小太郎、 小堀五三郎、館甚五兵衛、安土式 部、高須伊太夫、線引内膳、川村 市兵衛、高須兵書、高堀庄太夫、 中田市街門、根本弥兵衛ら、その 勢合わせ六十余騎が馳せ参じた。 もがりぶえ 流木の如くに眠る虎落笛 飯 田 勇一 こぶ 裸木の痛光り会ひ大き雨 鯉 渕 寿美恵 山眠るいろいろな色ミシンがけ 竹 内 幸 子 人の名を忘れしままの冬帽子 飯 嶋 と み 枯山となりて眠れる根の太さ 阿久津 あい子 手のくぼに祈りのごとし献榔争 小田木 梅 柿の実の一つ残りて父老ゆる 菱 木 女江子 石段の長きに喘ぎ竜の玉 飯 村 愛 子 引返すには達すぎて冬の道 今 瀬 多代美 花八ツ手小屋にふわふわ鶏の羽 長 須 きみの ゆずなます 柚子腹甘露最後にのむ予定 高 橋 芦 江 枯れ果てて田の広々と眠りをり 諸 井 はつ江 ダムの水ひたひた濁り大枯野 いそべ き よ 広報じょうほ<
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