広報じょうほく No.401 1995(平成7)年 8月
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「一‾一‾‘‾■‾‾‾‾‾′‾’‾’‾一●’‾’‾′‾’‾■‾一‾‾,‘‾‘‾′‾′‾■‾‾‾-‾′‾一‾‾‘■-■‾‾‾‾‾′一■-◆■一●一一■一●一■一一- 1 1 1 l ■‾■‾■‾■‾-‾-‾●l 藤原秀郷から八代目の政光が下 滑だ場木県)小山城に居城し 下野大橡として勢力をはっていた。 とものり 小山政光から十九代の小山朝矩は 織田信長と仲がよかった。天正八 年(一五八〇)朝姫は織餌信長を 助けるため白河郡白坂に出陣して いた。その時朝矩の息子朝息は那 珂西の藤ケ峯のあたりに陣を張っ ていた。 小山朝矩の父子とも出陣して小 英雄・豪族の話 小山 頑感轟 文.今 瀬 ♯ 次さん ■、-一--t-t■1--t、-■t、t■-、-、-、-▲--・lt-■・tJ■--1▲-1-、-t-、-▲---◆-I-,--1■--、-I-■-、■■----●---、---、-、-■-、---■---■-I-■-■-■lヽlヽlヽ■l-1■ヽlヽlヽ▲tヽl’lヽl 朝矩、朝忠の話 -朝矩の自刃と朝恩の武勇- 山城を留守にしているのを知り 「これはよい機会だノと喜んだ人 がいた。多賀谷修理亮、重経、信 太小太郎等であった。これらの人 たちが大軍を率いて、手薄の小山 城を攻めた。小山城は焼けてしま った。白坂の陣にいた朝矩にこの ことは急ぎ知らされた。朝矩はこ の報に驚き、直ちに兵をまとめて 小山に向かった。途中、古内郷に 寄り、清音寺山中に兵を休ませて ていた。 九月二十七日の夜半、突如とし て信太小太郎の軍勢五首余騎が清 音寺の朝矩に襲いかかって釆た。 朝矩等は必死に戦ったが、不意を つかれ、そのうえ大軍にはかなわ なかった。信太小太郎は朝矩の館 にも清音寺にも火を放った。朝矩 の従士小山左馬助義直、岩上主計 ただつぐ 氏忠、同量次郎息嗣、大森彦次郎 まさなり 直好、大塚三五郎正賓、佐山源兵 衛正利、栗原監物信昌、関六郎、 みぶのこんのじょう 壬生権之丞らは討ち死した。朝矩 は重傷の身で清書寺を脱出した。 そして、約五百メートル東方の藤 井川の近くまでたどりつき遂に力 尽きて自刃した。その自殺の地に は供養砕が摘”ている。また、 那珂西に「生首稲荷」といわれる ほこら 嗣があるという。 小山朝息はその頃那珂酉の藤ケ 峯に陣をはり、那珂西の作内館の 作内丹波守氏広と対陣していた。 父朝矩が信太小太郎に襲われたと の急報に古内に駆けつけたが、間 に合わず、戦場の跡のむごい光景 のみが日に入った。父の姿もなく、 小山城も灰になり行くさきもなく 再び那珂西に引き返した。 佐竹本家の佐竹義重は小山朝矩、 朝息の話を聞き朝息を城中に招い た。朝忠は招きに応じ、義重から 永楽三盲貫文をいただき、佐竹の 家臣となった。朝息は太田から那 珂西にすぐに帰り作内丹準春秋 信濃守定量と戦うことになった。 佐竹義重は江戸氏の重臣春秋氏の 一族作内氏を粉砕し勢力を伸ばそ うとした。この為岡本又太郎義忠 に三百余の兵を授けて小山朝息を 応援させた。作内氏広も春秋定量 ( の援軍を得て、ここに那珂西作内 館は戦場となった。作内・小内の はげしいこの戦は結局は小山朝忠 軍の勝利に終わった。 勝に乗じた小山朝忠軍は更に進 んで春秋城(見川城)に攻め入り、 城をおとし入れ、宿敵作内氏広さ らに、春秋定量を討ち取った。こ の両者の首を太田の佐竹義重に送 った。佐竹義垂は大いに朝忠の武 勇をほめ、家臣の疋田久太郎をつ かわして朝忠に黄金百両を賜った。 そして、その後も那珂西郷に住ま わした。慶長七年(一六〇二)佐 竹一族は秋田へ移封された。。領 地が減ったため多くの武士が帰農 した。小山朝恩も那珂西郷に住み ついて農に従事し、元和二年(一 六一六)七月一日に病死した。 (主に「中世豪族の争乱」 西野明孝・森島元 常北 の文化第十一号による) 辛 堅けせっばういし かげ 花苔や説法石にある翳り 小 野 草葉子 瞑想の菩薩に捧ぐ百合一花 先 崎 つとむ ひがた ぎゆうしヤ はるあさ 干潟ゆく牛車のあゆみ春浅し 飯 村 のぼる こいはのりうきはひゆ 鯉跳ねて法の浮菓を一と揺らし のぴる 野蒜 しまめだかのぞいけ 縞目高覗けば池の めいそう ばさつ きき (其の二) 大覚寺吟行 ばんりょく Lず しず がらん 万緑に沈みて寂かなる伽藍 園 部 登美子 Lんらん か ひ かこ あ ね 親鸞の歌碑を囲める大音嶺 伸もと子 ほうL辛かといっすい 放生の科料一水にある翳り 所 はすうきはL みず二もすきま 桐 原 桂 花 さけく かゆぴ の香指にしみたる酒酌まん 留 ふれあい俳句 ゆ加 一ひ関 り倉 と 三井濁竺 か り 峰 ち 雪 江 広報じようほく
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