広報じょうほく No.389 1994(平成6)年 8月
10/14

いの 鹿島神が入野の さのね 樹根につまづく 鹿島神は武神で、ヤマト 朝廷にそむく老を平定した 神。この神が入野(今の上 入野) の地に釆た時、どう したわけか樹の根につまづ かれてしまった。入野のひ とびとは申しわけなく思っ ていた。ずっと後で、鹿島 神をやしろ(社)をつくって まつることになった。そし 痴感轟 文.今 瀬 義 次さん 神さまにまつわる話④ て、木の根が上から出てい滝 ところに土屋おき、樹の根を かくした。それからは、この 神域には樹の根が露出するこ とがなくなった。 (鹿島神社社伝より) かさのみや 笠宮明神と静神社 くま 小坂にあった笠宮明神、熊 新艇斬鋸、飯野宮明神の3社 が、明治4年に一つになり小 坂神社となった。その一つの 笠言明神は、ご神体が笠の形 をした石なのでこの名にした あめのたちからおのみこと という。そして、天手力男命 が祭神だった。この神はたい へんな力持ちで天の岩戸を引 きあけた話が残っている。こ の近くの瓜連町に常陸二の宮 といわれる静神社があり、祭 たけはつちのみこと 神は建葉槌命である。建菓槌 命は機織の神であり、また、 たいへんな力持ちでもある。 ところでこの神は、天手力男 命の孫であるので、おじいさ んの笠宮明神は静神社の和 であるという。だから昔から きる 10月の中の申の日の静神社の ( なかったという。 例祭には笠宮境内の榊を持 って笠宮の神職が静神社へ 行って祭りを行った。廷宝 年間(1672〜81)に都 珂川の洪水で静神社へ行け ないことがあったため榊を 根堀りし静神社の境内に移 植し、祭日に持っていくこ とをやめた。今も小坂神社 境内の神木としてある榊は 静神社へ移植した榊の子孫 という。 (主に「水府志料」及び 「小坂神社社伝」より) くまのごんげんしゃ 熊野権現社と 「ロンデン」 熊野権現社のあたりには じゅんれい 今も「クマノ山」「巡礼橋」 等の小字地名が残っている。 また、近くに「ロンデン」 という小字がある。この権 現社は、もと春園にあった のがバつの間にか小坂へ移 ってしまって、春闘と小坂 ろんそう の人が論争した所がこの田 なので小字地名が生まれた という。昔は、このため春 園と小坂はあまり伸がよく ひしゃくを使って勢いよ くまくために、「水を打つ」 という表現となったのでしょ うか。 いまでも、夏の暑い盛りや 夕暮れ時には、家の前の道や 庭などに打ち水をされる方は 少なくないようです。こうす ると、ほこりが舞わなくなり ますし、地面の温度が冷やさ れて、涼しさを感じます。 料亭などでは、庭の飛び石 打ち水のころがる玉を 見て通る 飯田蛇第 打ち水は、もともと街 路や路地のほこりが舞い 立つのをしずめるための ものです。「水をまく」と もいいますが、バケツと 夏の夕暮れどき、庭木など にまいた水が、露になって木 の葉の上をころがり落ちる様 はさわやかで、畳の暑さを忘 れさせてくれます。 水打ちて 露こしらえる 門辺かな 太舐 や灯籠に水をかけ、さわやか さを演出しています。また茶 道では、水を打ってお客様を 迎える作法があります。 都会の道路や公園などでは、 散水車がゆっくりと走る風景 が見られます。散水車が登場 する前は、木の車に水槽を乗 せ、散水する人が開閉機を使 って後部から水を出して散水 していたようです。最近はほ ます。一人一人が水の大切さ を考、え、工夫して利用したい ものですね。 とんどの道路が舗装され ているので、散水車をあ まり見かけなくなりまし た。 ところで、夏は水不足 になりやすい時期 - 打 ち水どころか、生活用水 にもこと欠くことがあり 広報じょうほ<

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です