七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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A法主○○歳に弁動、くますわ濯鍾‘ニ七会塩子の郷倉高取鉱山背・鬼想-一》一一一■一F一一一恥一m赤》■(密》一一垂F一一雲》口一型や〈一■一手平■》一(牢》■【】I■一一■』》もF一一一壬一一巳■一まな変遷を辿ってきたわが村「七会』の姿をふり返ってみれば、明治二十一年(一八八八)「市町村制」の公布、翌二十二年『大日本帝国恋法』発布。さらに二十三年、小学校の義務教育化を位殻づけた「小学校令」の改正と、現代の日本の礎が築かれつつあった明治二十二年、七つの村が合併されて「七会村」が誕生しました。明治十七年から、すでに連合村として統合されていた旧水戸藩の塩子・小勝の二村、それから旧笠間藩の徳蔵・典端・大綱・下赤沢・上赤沢。この七つの村が市町村制施行により合併したのでした。七会村発足の理由は、後に発行された『茨城県町村沿革誌』でつぎのように記されてあります。「本村内ノ各村ハ小村ニシテ独立自治ノ資力ナシ、然ルー地勢、風俗等前項二記スガ如キノミナラズ鍵二同一連合区域ヲ以テ交際側ヲ親密ナルニョル典迎合ヲ以テ直一二村トナス」こうして七会村は、村区域を変更することもなく今日に至ったのでした。県内市町村のなかで、今年一○○周年をむかえるのは、七会村のほかに水戸市、茎崎町、五霞村があります。七会村に日本民俗学の先駆者・柳田国男が訪れたのは、明治も終わりに近づいた四十二年七月のことでした。彼は、村の地域社会としての特性を二つの視点からとらえています。』一凸一一【こ■竺坐蒔冗奉一■踊吋》rFい一一一一》輔昭一晒酔》一■ロロ夕匡■、】■一睡一一ケ一一■■ニジー■■》争唾肥再一ノミ渓谷錯綜シテ縦横二縦ヲ為シ許多ノ通路アリ、西側ノ民居地形略相同シク従テ方言信仰家屋ノ櫛造耕作物ノ種類等一切ノ生活態二於テ境線ノ存スルモノヲ認メス」ということ。第二点は「両国間ノ山路ハ極メテ安易ナルニ拘ラス人馬ノ往来少ナシ・蓋シ産業状況ノー様ナル為二有無相通ノ必要ナキコト是力主因ナルヘク更二鉄進ノ引力力略圃境ノ辺二於テ均等ヲ保テルカ節ニノ原因ナリ』(定本柳川圃男集二九巻)ということでした。当時、村の経済を支えていたものは農業でした。といっても、それによる生巌高は全村あわせても一万三、○○○円を欠ける程度で、そのころとしても決して商いものではありませんでした。「村是」によれば、村の第一の産業は林業で、次いで商業・工業があったようです。村人たちは、米や麦、そば、豆、野菜をつくるかたわら山に入ったのでした。この林業は、明治三十五年、笠間に竹を出したのがはじまりだといわれています。その後、脇に木炭を積んで運び、木材や薪として出荷されるようになったのでした。さて、八満山系のなかに位慨している七会村は、鉱物資源を含んだ地質をもっています。とりわけそれは、北部塩子集落と椛村との境界にあたる商取山一僻に集中しています。天正年間に発兄されたといわれ、徳川光間のころには、ここに「御錫役」が置かれました。民俗学者柳田国男も司七会村ハ北隣岩船村卜共二重石(タングステン)ノ産地トシテ稲其名ヲ知ラル」としています。村は、第二次大戦後、農業生産の増大が叫ばれていた時期に海外からの引揚者の開拓農入植の対象地となり、約四十戸ほどが入居してきました。このころ好調だった林業や鉱業とあいまって、村内が活気づいていた時期は戦後一○年ほど続きました。しかしその後、昭和三十五年以降は、商度経済成長の影響を激しく受け、磯家の兼業化、脱農化、農村人口の減少化など、迦疎化問題を抱える村となってしまいました。現在、七会村は県内一古い村であるとともに県内一人口の少ない村になっています。しかし、水戸から約四○分、東京からはわずか九○分という近さのため、ゴルフやキャンプで訪れる人は年間おょ《そ七○、○○○人を数えています。よそではすでに普諦となっている庚申識、風祭むさふたや麦の蓋が、それぞれの地区で今も行われていたり、ここで創作活動をするために都会から転入する人がいたりして、〃ただ小さいだけではない魅力が漂うむらで

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