七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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。{:五・]苦雫七会柄亨景・訓練所設立《苦の砦衆組や処女会の流れを汲む青年団が新たに組織された時期で、その指導者養成のために、毎年、数日間の合同訓練を実施した.[U”噸如側塞誤黛I塞望豪五年、真端と大網に大真養蚕実行組合設立。このころから農耕用に馬だけでなく牛も飼われるようになる十年、全村にわたって電話が開通する十三年●役場庁舎完成十六年③第二次世界大戦(〜昭和一一十年)二十一年、外地からの大量引揚者と食糧難を解決するため、各地で開拓農家の入植がすすむ。当村では、徳蔵字原山、役場裏、小勝字大藤、下赤沢字大沢、下赤沢字大畑に四○戸が入植した(〜昭和二十七年)二十四年●塩子小学校建設●小勝小学校建段●徳蔵小学校建設二十五年●七会村農業共済組合設立●高取鉱山、荒川鉱業が継承●村人口四、四八二人二十七年●東野鉄道㈱路線バス運行開始⑤七会村報創刊二十八年⑨七会村森林組合設立③七会村国民建康保険組合直営診療所建設一一帯一一一》》《》《峰》〉》一部冠営診一●皇太子殿下御成婚記念部分林設定Q村人口四、○二九人三十六年、七会中学校舎建設三十七年●七会村腿事有線放送開始e徳蔵寺木造弘法大師像、礼盤、両界塁陀羅版木、県文化財に指定三十八年●高取鉱山閉山、青年研修所建設、塩子小学校完全給食実施三十九年、徳蔵小学校完全給食実施四十年皿催溶催詫樹詮》諦鑑認鋤合併一狩猟を終えて.…・・(提供/阿久津忠一氏I地域ぐるみの田植作業.(提供/阿久謙鋭男氏)浄ー4焼失前の塩子小学校校舎(提供/阿久津忠一氏)旬一亭一旦挙評塗遮〃氏男鋭準いた。製錬された重石は袋に詰められ馬車阿によって水戸駅まで送られた。後には石塚鐸までとなって、毎日錫高野から高久、上峠醍を経て石塚に運ぶ馬車が列をなした。当時年高取鉱山の生産量は毎月八歩シといわれ、わ9吃が国では精練することができないので早い矛昭頃はドイツに、開戦後はアメリカに送って幸いた(桂村郷土誌より)初酬ばらつば餅としもつかれ●この戦争の前後、前もっと詳しくいえば終戦後の高度成長期を蔀境に、村人の暮しはずいぶん変わったとい庁われる。かってのこの地方独特の行聯食と鶴いえば元ばらつば餅』と「しもつかれ」があげられる。ばらつば餅は、祖先の霊を迎える盆に作られた。山から採ってきた「ばらつば」と呼ばれるサルトリイバラの葉に、ついたばかりの餅をくるみ仏壊に供える。jばらつばは蒸し暑い時期の食品保存によく、窪帰郷してきた人にお土産にもなった。一方鋭「しもつかれ」は、一一月の初午の日に作り、t銅わらっとに入れて稲荷や氏神のほこらに供阿えると豊作や災難よけになるといわれた。鍔正月の残り物の鮭の頭と節分の残り物の煎鯉り豆を利用して大根・人参・油揚げ・酒粕橋とともに大きな鍋で煮る。酢・砂糖・しょ認うゆで味をつけるが、それぞれの家の味があり、近所を回って食べ歩いたという。人馬一体で農耕作業(提供/卜部一彦氏
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