七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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[〕Ⅷ棚泌畑昌、毎m奇I』琴』唖補二十二年e七会村発足三十二年、村人口約二、八八○人四十一年●七会村尋常高等小学校創立四十二年●村人口増加、約三、三七○人e柳田国男、七会村を訪れる●高取鉱山開発の池内総一郎がドイツ人技師の援助によりタングステンの路頭を発見四十四年e同鉱山の所有権、池内鉱業から三菱合資会社へ同〕十八誠L畠届雨気l』語争鞠三年●村人口三、三九七人●第一次世界大戦がおこる。タングステンの需要が急激に増え、高取鉱山は一大発展を成す。五年●折戸村有林設定七年●同鉱山の所有権、三菱鉱業に移る(第一・次世界大戦終了)十二年●下流にあった藤井川発電所から電気がひかれ、村に電灯がつく、警察駐在所に電話が入る。このエ事にあたっては青年会の労力奉仕があった。当時の村長阿久津竹之助は、祝辞のなかで「人命保護ノ上一一アシ日二百倍シ」とその喜びを述べている●大戦終了後、タングステンの需要も減っていき、この年ついに高取鉱山は閉山に追い込まれる(以後再開と休山を繰り返す)|その時々の先人たちの暮らしぶりとはどんなものであったのか?、一枚の写真がそれを語ってくれる。一{砺司{》一一』’一】丑一叩苛一一奉和一画程『壷司雪》一一祁要■即一唖固【具一一露↑函{一F一言庁(一一割卸一届哩(提供/大森旭氏)昔の造り酒屋=酒造蔵(提供/阿久津鋭男氏田植風景=失われゆく光景(提供/阿久津忠一氏七会尋常高等小学校=着物と下駄で記念撮影(提供/阿久津忠一氏)通信●明治期においては.電信電話はまだ敷かれていなかった。ただし塩子には郵便局があったという。いつごろ設置されたものか確かな記録は残っていないが、阿久津改造さん宅の一部を使用して開いたのが始まりだという。そのため、阿久津さんの屋号は「局」となっている。鉱山活況●大正三年第一次世界大戦がおこると重石の需要は急激に増え、高取鉱山は一大発展をした大正六年には従業員二○○人に遠し、家族を含めると約六○○人が生活することになった。当時錫高野集落はランプの生活だったが露鉱山には火力発電が開始されて竃燈はこうこうと輝いて山を照らし、電話が架設され、五階の選鉱所は従来の手選鉱を機械化した。七五馬力のモーターはうなりをたてて全山活気にあふれて明治35年度造林記念(提供/阿久津鋭男氏)年表と写具で綴る七会一○○年史

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