七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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瀞います。「三夜待ち」といって、毎月または正月・五月・九月の旧暦二十三日の夜、当屋に集まり、掛軸の前にぼたもちを供え、飲み食いしながら月の出を待ちます.砂糖をたっぷりきかせたあんころもちを、大きな椀に山もりにして食べる。白米すら描足に食べられなかった時代に、この夜のあんころもちはごちそうに値するものだったのです。二夜さまを信仰すると良縁を得られるとか一生お金に不自由しないで悪らせるとかいわれ、信心深い人はわざわざ水戸の三夜尊まで驚鶴医学がまだそれほど進歩していなかった時代に、子供を無事、産み育てるには多くの危険や困難がともないました。だから女たちは子宝が授かりますように、安藤でありますようにと、地蔵さんや観音さまに自然に手をあわせるようになりました。一九夜諦は、そんな女たちの祈りが込められた祭りです。毎年、三月と十月のそれぞれ十九Hにとり行われます。旧暦の三月は今でいうならお花■女たちの祈り昔はほとんどの農家が脇を飼っていました。同じ屋根の下に馬屋があり、農耕に連搬に、縄は農民にとって良き家族でした。「馬は半身上」という高菜があるほど大邪な脇ですから、その無事を願い死んだ鵬の誰を慰める誰もありました。「観音誹」と呼ばれるこの識は、おもに馬車ひきを職業とする人の間で行われていたようです。賜頭観世音、と刻まれた石塔などが村には二○ほど確認されています。(資料鴬七全村民俗誌』大森旭特)兄の季節.そのせいか「花の十九夜」という爵葉が生まれ、近端には十九夜塔が建てられました。当屋では、あんをくるんだダンゴをたくさんつくり、集まった母親たちにふるまいます。塩子塙では、十九夜さまが盛んに行われていました。商い山の上には観音さまが祁られているほどです。犬供養も、十九夜識同様安産を祈っての祭りです。ただし、初めは犬がお産で死んだときの供養でした。犬はお産が軽い動物で、難産で死ぬことはまれだったため、万が一死んだときに、女たちが集まって供養をしたのがはじまりということです。供蕊は、寺の住職からY字型の木に「供養』の文字を群いてもらい、集落の辻かどなどにあるお地蔵さんに建てるというものです。この時、集まった姉人の中に妊姉がいる場合は、その人がY字型の塔婆をもったそうです。このほか、子安誰・鬼子母神誹なども、女たちにより安産や夫婦円澗を願って行われていたそうです。■馬へのいたわり

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