七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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村制施行100周年記念鰯特集上赤沢地区と下赤沢地区は、もとはひとつの村だったといいます。長屋門や四つあし門をもつ趣きのある家が多く見られ、盆の月には集落全戸をまわって念仏を唱える「百万べん念仏識」が行われている所でもあります。さてこの赤沢地区と隣接する栃木県茂木町との交流は、主に「栃越道」によりなされていました。鶏足山を右手に眺めながら上赤沢の集落を抜けていく栃越道は、その昔、栃木へ嫁ぐ娘の、また栃木から嫁い◆●●。●●■でくる娘たちのバージンロードでもありました。下赤沢の片岡善忠さんの奥さんも茂木から嫁いできました。片岡さんの家とは、なんと四代にわたって婚姻がとり交わされていた古い間柄なのだそうです。「わたしらなんかウソもかくしもない、一週間くらい提灯の明りをたよりに栃越道はバージンロードこの峠を昇りきると栃木との県境に出三そのころは新婦も隅に乗せられて行ったそうです。つづら馬子は、お嫁さん用に葛総馬や黒塗りのひしゃくなどを用意しました。葛龍馬とは、馬の背の両側に葛髄をつけ、その上に布団をひいてお嫁さんを乗せるようにした馬のこと、黒塗りのひしゃくは、途中で喉が乾いたときに水を飲ませてあげるためにあつらえたものです。祝い歌にあわせながら行列は進みます。栃越道にさしかかるあたりには日が馨れて、仲人のもつ提灯の明かりがほんのりやさしく足元を照らすのでした。前にな-|たら親が一口固め』(結納)だっていうでしぶ¥〃だれの?“って聞いたら〃おまえだ。赤沢(片岡家)とだ″って言われて。口ごたえなんてできない時代だったわねえ》かくしてフキ子さんは、ダンス・長もち・布団などの嫁入り道具を揃えてもらい、終戦後、下赤沢へ嫁いできたのでした。嫁迎えの一行は、おじ・おばなど五〜七人からなり、自動車が登場するまえは、新郎は馬に乗って嫁の生家まで迎えに行ったものです。一行が嫁方の家に到着すると、まず座敷に通され、目録の品を主人に渡し、祝いの料理をご馳走になります。この間に新婦は仕度を整え、用意ができたところで新郎は新婦をもらいうけていきます。帰路は、嫁迎えの一行に新婦方も加わって長い行列となったものでした。嫁入り道具も荷鞍につけて・・・
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