七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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言詞=『先生、おらげの子供が熱出して苦しんでる唇ちよ(》くら来てみてくろ』『そうけ、そりゃたいへんだっぺ。そんじや行ってみつか』(ガタゴトガタゴ卜……坂道が急になってくる)『あれえ、坂l急で上がんねえ。こりやあ後ろから押さねえとダメだっぺ』*七会村は、大正から昭和の中ごろまで全くの無医村だった時期がありました。だからその間は、おそらくこのような会話を交わしながら、笠間まで医者を迎えにいったのでした。七会から笠間までは、現在も車で二○分ほどかかります。馬ならば、その倍はかかるでしょうか。しかも、笠間からの道は、どうしても峠を越えなければなりません。『お医者さんははじめのころは馬にまたがって来診していましたが、やがて人力車で来るようになった』(阿久津忠一さん)そうで、峠にさしかかると迎えの者は人力車の後ろに回って押さなければならなかったようです。現在のような健康保険の制度はなにもなく、それがゆえに一人でも家族から病人がでると、薬代がかさんで貧乏を余儀なくされる家もあったといいます。それでも、塩子地区には、明治のころには医者がいまおおぎはた息ゅう腿力くじした。大座畑久甫と卓爾が、二代にわたって村の医療にあたりました。しかし、無医村となってからは、北山内村(現笠間市)おおたそうはくの片庭にいる、太田宗伯という医者に往診を頼むよりほかはありませんでした。太田宗伯は、病人を診察したあと漢方薬を与えて療養をすすめましたが、村人のなかにはかなり悪くなるまで我慢する人もあり、手おくれとな笠間までの夜道を走るお疾号者さんは馬に乗(てる場合も多かったようです。あるとき、母親が病気にかかって苦しんでいる娘をかかえて、夜の道を笠間まで走っていこうとしました。けれど、その娘は、石寺峠にさしかかったあたりでかわいそうに息をひきとったのでした。その後、村人たちの間では、峠付近に死んだ娘の幽霊に会ったという噂が流れたということです。石寺峠には、いくつかの石仏がたっていますが、当時の人々も、ここを越えるとき様々な願いを込めて掌を合わせたことでしょう。七会村では、無医村の期間の後、水戸から「野村」という医者を迎えることができました。ちなみに、その時の診療所の建物は、現在の村営住宅の前にあったということです。石寺峠の石仏昭和47年頃の診療所
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