七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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村制施行100周年記念■特集》画一一■エ即一畢咋一一哩掘控哩}■一F》■■■一一一恥』』辛■■凸FU--価一型一一一画■一山峠一画一一〈|も■〕吾一F辛■「おらあ、あそこを毎日歩いていた。あの峠はね、兵隊さまがよく通っていたんだ。水戸の鼻迎隊が那須野ヶ原の菰習地へ行くのでね。脇車引きを姑めたのは、二二歳の時。多いときは塩子で十一人いたつけな。朝の六時から夜七時、八時まで側いた。あのころは端子や小勝の材木や炭をよく巡んでいたね。普の人は、山の峠に道をつけるのが好きだったんだね。昔の道に沢道はない。見晴しのいい所を選ぶようにしていて、悪人におそわれないための知恵だったんでしょう苧小林さんにとっても、峠は一器苦労する所でした。「二台引き」といって、荷物を半分に分け二回にわたって運び上げたり、一台づつみんなで押し上げたり・・・…。雨が降った日などは、道がぬかるんで大変だったといいます。かつて、柳田国男が「両国間ノ山路ハ……人馬ノ往来ナシ』とした道に、金山峠も含まれているかもしれませんが、しかし、村人にとってはやはり大切な生活路でした。山のふもとの字京内畑には四軒の家がありますが、昔は四軒すべて、栃木から嫁を迎えていたのだそうです。かつて栃木から嫁いできたという小林三枝さんもこう言かつてはこの様に材木の切り出しが行われず銅謹鐘今も行われている田ん中祭り閥II11II<昭和63年現在の道路状況図)います)「うちのじいちゃんの若いころは、茂木の高校へ通っていたっていいますからね。たぶん自転車で通ったんでしょうけど」。ここ、塩子は「田ん中祭り」発祥の地でもあります。その昔、木曽の御獄山から神様を分けてもらい塩子まで来たところ、山のふもとでとっぷり日が募れてしまったそうです。使いの人は、仕方なくその晩は田んぼの中で神様をお守りすることにしたのでした。現在、塩子の御獄山は信仰の山として山頂には立派な神社がたてられており、春秋の二回「御獄山祭り」が行われています。田ん中祭りは、この御獄山祭りの前に行われるということです。県道,村道図田谷木路郷蔵下薩徳高大岩大大サ高間道仲本栃罵凱鼠?莞:;&鷺、‐。;噸噂監憩急.農灘黙#蕊篭“当塗J毒蝿坤制覇W,
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