七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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七合同村地温しまったのでした。ようやく見つけた旧迩は、植林されたヒノキに隠れており、土手をはい上がっていかなければなりませんでした。ここ何年、いえ何十年も人が通っていないらしく、落ち葉でおおわれた道には、ソネの若木が何本も枝を伸ばしています。「わたしも、ここを通るのは五○年ぶりですからねえ」半世紀もの間、踏まれる事もなく積もった枯葉を踏みながら、さらに坂を上っていきます。息が荒くなって身体か’一言二ま}〃峠まであと少し、というところに、朽ちた柱のようなものが転がっています。(明治42年頃の道路状況図んたか栃才県側の民悲』林・産談城県側の国論林の境を守るために、塩子の営林署がたてたんです」。明治三十五年、塩子で植林されたヒノキは、今では市場価値の高い「塩子ヒノキ」として知られるまでになつっています。だんだん坂道がなだらかになってきました。ついに、峠に着いたのです。「昔は、ヒノキが植えられていなかったからもっと見哨しが良かった。ここに来ると栃木県側がぐるりと見漉せてね。日光がよく見えたものです」。水戸の殿様も、脇子さんも、お嫁さんも、ここでひと休みしながら、峠からの景色を楽しんでいたのかもしれません。一←やああそこ〈行》たのか←、?わか「たもんだ。農道が切れていてわからなかっただろうに」。大正から昭和にかけて、胸車引きをやっていた小林寅″昔の人は峠に道をつけるのが好きだったんだね″塩子の桧林
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