七会村制施行100周年記念要覧 1989(平成元)年 3月
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村制施行100周年記念ロ特集そ零黄壷だ言掌軍票や↑管野〈が通(・子哩膿寅一か一ずたこう〆の話です。人々は、物寅などの輸送をほとんど馬に頼っていました.お嫁に行くときも、山で焼いた炭を売りに行くときも、馬が使われていました。そのころ、水戸から栃木へぬける道のひとつに「金山峠」ルートがありました。水戸から常北町を経て小勝に入り、塩子にある金山峠を越えて下野の国(栃木県)に通じる道です。昭和十九年に、これと違うところに県道水戸茂木線が生活物資は金水戸の殿様が通《-た道冬に向かうある晴れた日、金山峠を歩いてみることにしました。(多分、ここだろう)と思って行った所は、塩子の京内畑を通っていく道です。案内してもらったのは、村の歴史に詳しい大森旭さん。アスファルトで舗装された道が県境まで続きます。「これは昔の道じゃない。数年前に農道としてつくったもので、金山峠は山すそを通っていくものだったんだが」。山すその道、といっても周囲にはそれらしきものは見当たりません。農道の工事で、入口の部分がなくなってか二←た罰曹《で一○俵からの炭を馬に一けて茂木へ運び、帰りには呉服や乾物などの日用品を買ってくるのがふつうでした。にか1-1手全村からは主に炭が運ばれ、多い人で年間一○万俵をあっ通ったため、「金山峠」は今ではほとんど忘れられています。しかし、江戸時代には水戸の殿様がこの峠を越えて日光(栃木県)へ行かれたとされており、「塩子」の地名も、もとは、大洗方面から塩を運ぶ際に使った「塩瀧」に由来するもの、といわれています。峠を歩くを越えて水戸から栃木へぬける重要な道だった金山冒一一一《一一卦一泣路鉄滋信電郵便第三節交通交通如何《地勢ノ共レト大二関係ヲ有ヱルモノナリ而シプ共ノ良否如何《進歩壁鵬上影響ヲ及ぶ象モノナリ本村ノ比較的不便ナル《之し言地勢ノ自一フ然ラシムルノ勢ナリ、恩フニ本村ノ地勢ダル四而閲ムニ飛厚ナ潅山岳商地ヲ以アユ加之村内丘陵,商地,騒起ノ凹凸茜シキノ欺態ナリ通路ノ不完全ナ”遇然ニァラザルナリ通路ノ稲完全二近キハ水戸ヨリ小勝0鯉子ヲ趣ブ栃木蕪茂木町二通ズル懸滋、小勝ヨリ高田山ヲ綴ジ笠間二霊ル里滋、徳蕊ヨリ其娼ヲ遥雫商師錨ヲ涯グ笠慨呈走〃里数‘赤派四ワ片庭二向う里遁ナレ共多クハ念坂ヲ稼異”擬ナレハ樹行路ノ不便少カラズナレドニ三年来共ノ開遡ノ必要ヲ認〆燃費ヲ仰ぎプ改修ヲ加へシ結果多少通行難ノ蕊ヲ砿セシモ未〆島単荷耶等ノ利用上迩慨少シトセュ卿ソ画一面サト・則.1j4m口ib0尋・』己馴N““Jnヨ醐訓裂窒・J1雪ノ&「司隠杯胸ノ士弔肘計和判圃献ノ》う調、一ヨ《仙司″日グ、誹一ノ創肥与哩。Ⅲグ剣グェオ訟坦ナルモノ極ノブ少ク急坂ヲ雑子然谷ヲ渡ル等大二加工ノ必要アルハョ下ノ驚兜ナリ従ァ演車、滅鋸0弛信、池話辱ノ便ナク迩迩ノ便呈依ランタメニふ是非笑間町二出デザル可カラズ通信槻閲ノ削合二行届キ他一遜色ナキハ大字璽子二郵便肺ノ設依アル鍔メナランカ然)トモ共侭東ナ〆ガ故二全村ノ利便トナュニ足ラズ並二木村司り冬魂方二垂ル里程才示サハ海ノ如シ

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