誕生35周年記念 桂村勢要覧 1992(平成2)年 12月
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-■11 物流の道 那珂川の水上交通と橋 r-l ■【 河岸用箋 」一転 江戸時代は年貢米や生活物資を輸送するの に、陸上では馬や荷車が使われましたが、こ れでは大量に運搬できません。そこで、那珂 川から川船を利用し、多量に、早く、安く物 資が運ばれるようになりました。物資を集め かし る所は河岸と呼ばれ、わが村には高瀬河岸と 徳宿河岸がありました。 高瀬河岸は寛永二年(一六二五年)下巧の高 瀬対馬の二男息兵衛が河岸守になったのが始 まりで、代々息兵衛を襲名。明治まで十一代、 約三石年にわたる河岸でした。水戸藩のご城 米の輸送にあたりましたが、所有船は高瀬船 二隻、半俊一隻で、高瀬船は米俵六〇俵も運 びました。下流は水戸や那珂湊などまで行き、 帰りは日用品や食料品を運びました。明治に なると年貢米を運ぶ事はなくなりましたが、 民間の経済が発展したため河岸はますます繁 盛し、阿波山に出張所も設けられました。こ の出張所で明治の初めに営業が始められたの が徳宿河岸であり阿波山河岸とも呼ばれ、積 み出した物資は、薪炭、穀類、たばこ、石材 などで、搬入したものは、肥料、塩、酒、雑 貨など。特に岩船石の唯一の積み出し場で、 水戸第二連隊営舎建築の時には、この右を運 ぶのに大にぎわいでした。だが、鉄道や貨物 自動車の普及により水運も次第に見られなく なってしまいました。 また、天正年間の頃から下打と対岸の那珂 郡問の往来は渡船でした。那珂川の洪水によ り流路が変わるため船の発着場所も決まって いなかったのですが、渡船の権利は下坪にあ りました。また、御前山下の赤沢と野口の間 も渡船によるものでした。やがて、昭和六年 に那珂川を横断する県道の下咋・郷珂町下江 戸間に千代橋が架橋されましたが、六十一年の 洪水で中央部が落穂したため新たに災害にも 強く、交通量の増大にも対応した千代橋が造 られました。 さらに平成二年に広域営農団地農道整備事 業として阿波山・那珂都大宮町問には大桂大 橋が架けられ、地域のますますの発展が期待 されています。(「種村郷土誌」参照) 一.. II 千代橋(上)と大桂大橋(下) 1l

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