誕生35周年記念 桂村勢要覧 1992(平成2)年 12月
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′ ・、・ 一-■ ■ 直の風土記 産業の開発に遺賂の塾備が重要である事は、 いつの時代でも変わりありません。現在、わ が村を縦貫し交通の大動脈となっている国造 一二三号線は、江戸時代には「都須衝(海) 遭L、明治四十年からは「鳥山より那珂湊街 道」と呼ばれていました。江戸時代、水戸を 起点とする街道は九遣ほどあり、郷須街道は あが村を遮り、水戸と下野の北部を結ぶ重要 な道路でした。那須野遭は大部村(現在の水 戸市飯富)で茂木街道と分かれて一路北進し、 常北町、種村を経て御前山村長倉から鳥山に 向かっていました。 途中の道には通行人のために桧並木が植えら れ、追いはぎも出たといわれます。また、明 治の中頃までは交通機関の発達もなく、水戸 へ行くという時などは、握り飯を腰にさげ、 わらじばきでもっばら徒歩によるものでした。 そして、明治二十五年頃には金輪の人力車が砂 利道を走り始め、明治三十七年頃を過ぎると、 石塚から沢山まで乗合馬車の営業が始まりま した。一人の馬丁を先立て、桧並木から流れ てくる小さなラッパの音に、「トテ馬車」と呼 ばれる事もあったとか。今日の車社会からは 考えられないような、なんとものどかな情景 が日に浮かびます。 十ノ十‘十∴10
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