誕生35周年記念 桂村勢要覧 1992(平成2)年 12月
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逗■■ 冤永十八年(一六四一年)、水戸藩は「太閤 検地」にならった厳しい全額の検地を行った 後、支配体制を確立し、農村対策に力を入れ ました。というのも当時、農業は藩の経済を 支える基礎ですから、生産を上げる政策が重 視されたのです。そのために藩は、夏場など の水不足に備えて、奉行に水利計画の作成を 命じ、これをうけて専門の奉行として望月五 郎佐衛門・長谷川五太夫の二人が用水開発の 計画を立て、測量には永田茂衛門とその子勘 衛門があたりました。永田茂衛門は、錫高野 村で錫を掘っていたこともあり、この頃は久 慈郡で金山開発を行っていたもの。 水利開発の遠 赤沢江から圃場 望月の命をうけて永田親子は、久慈川周辺 を初めとして苦心惨たんの末、幾つもの用水 路を完成させました。万治元年(一六五八午) に那珂川の対岸に完成し、今もとうとうと流 れている小場江とは対照的に、わが村のとこ ろどころに昔の面影を残して廃墟となってい る「赤沢江」もその一つ。赤沢江は慶安三年 (一六五〇年)着工し、明】撃一年(一六五六年) に完成。 御前山のふもとを水の取入口として阿波山 の北端から館山の東側を流れ、北方の崖下か ら高久崎、春園の東北をかすめ、石塚の風隼 神社の下を上泉に至り、宝憧院下からは木桶 で飯富の台下に接続しています。この四畢一 十余町(約一六・三キロ)の用水路も技術が 進まず、動員された人夫だけでもたいへんな ものだったといいます。こうしてわが村をう るおした水路も、流水の不足や潰さらトが完 全でなかったため、いつのまにか廃墟となっ てしまったのです。 8
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