誕生30周年記念 桂村勢要覧 1985(昭和60)年 11月
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プン′ 壁面観世奮像(名勝) 癒一大師の作といわれ大師がこの他へ来たおり岩麿の壁面に刻んだ十一 面観世音像で,いぎ閑暇というとき寒が夜明けを告げ,一夜め内に刻むと いう大師の念醸が達成できず,ついに未完成に終ったあのである。そのた 下町館祉(種村務定史跡) 今は,専堀の内にあり南は平地で入口を大門といい枇を八幡平という。水田をめぐちす。佐竹氏支濠石塚裏 め苦からこめ地では篤を飼わ翫、という。等身大の蛮産守護の重傷で毎年 義が住んだが,のち石塚城に移った。その後桐原某が住ったという。 憎陸風土記より) 3月18日が縁日である。 す華わ 書 一 正一一-ヽ1・. ヅ.㌦ ■ ・■ - ヽ. ヽ、\・L・. 頓(徳)ヶ原音墳(種村指定史跡) 古墳時代は弥生式文化時代につづき3世紀頃から,仏教が盛んになる了,8世紀頃まで であるが頓(徳)ヶ原古墳群のうち,この前方後円墳は全長35メートル.高さ約3メートル, 周囲に堀をめぐらしているg葬った石室は尭全に保存されているぅ権2メートル,横l.8メ ートルの巨大な石材でかこまれている。 元禄I一年頃は大きな蒔で一部は大木にからまりまた一部は数十坪の地面をおおい年々見 事な花を咲かせた。 水戸藩主義公が,二の藤花を激賞し萬歳藤と命名また屋号を藤本と命じて亭を造り重複 亭と名付けて花宴,詩会を催したというぐのち天保4年相月に烈公が訪れ本木は枯れたが 新しい芽が出ているのを見て即吟し当主大森藤衝門盛救に書き与えた。 西山の君の愛し給う藤の枯れ本木より芽を出るを見て 「咲く藤の花なき頃にきてみれば めぐみのもとにあるぞ楽しき」 現在は規模も小さく当時(約287年前)が僅かにしのばれる。 g4
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