常北町勢要覧 1999(平成11)年 3月
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神様にまつわる話魔王馬が馬塚に落ちる「イシヅカ」の地嘉の菱こイ,むかし、むかしの話。まだ大和朝廷に従わない者が多かったころ。鹿島神(タケミカヅチの神)や香取神(フツヌシの神)は、常陸の国で大和朝廷に反抗するものを懸命に平定していました。そのころ、久慈郡石名坂(現日立市石名坂)一帯を支配していたのがカカセオ(香々背男)です。この神の勢力は強く、激しく鹿島神に抵抗しました。そして大きな石となったのです。驚いたことにその石はみるみる大きくなり、天をも突き破乳勢いで育っていきます。これにはさすがの鹿島の神もどうすることもできずに困ってしまいました。その時、静の里(現瓜連町静)で機織を教えていたタケハヅチ(建葉槌)の神が、鹿島神を助けて早く琴和な里にしようと駆けつけたのです魔王石をじっとにらみつけていた静神ははい2■歴史と文化の顔「初者古内茶の母〃r冨誌諾常北町古内周辺の特産物といえばお茶であり、「古内茶」として有名です。古い本にも「この下古内村から出たお茶は味が一番よい」と記されています。実は、この古内茶は黄門様と関係が深いものなのです二黄門様は清音寺が大好きで何回も来られました。この寺の環境が良く、立派なお坊さんがいたので、そのお坊さんとの話し合いが好きだったからです。この寺のお坊さんが黄門様にお茶を煎じたところ「これは良いお茶だ」とほめられ、よまれた詩にもそのことが書かれています。お坊さんは「このお茶は、清音寺を中興した復庵禅師が境内3か所にまかれた茶の実の株からつくったお茶の母木です」と申しあげると、黄門様は「それなら『初音』という名で呼ぷがよい」とおっしゃったそうです念ていた金の靴で「えいつ」と魔王石をけとばしました。するとこれはどうしたわけが石は砕けて飛び散り、カカセオは死んでLいました。これを見ていた鹿島神の軍勢驚き、そしてどっと歓声をあげました。魔王石は石名坂で三常常北町の昔話つに分かれて飛んでいきその三つは石上(現海村石神)と、石井(現笠間市石井)、そして石塚に落ちてそれぞれの地名にな弓たそです。石塚に後にできた城跡のuふるさと人はかし橿山」といつていますが、そこに小さ毒ほこらがあuます・この近くの士の中に石があるのですが、その石は掘っても掘ってもなくなりません。これが魔王石なのです。その石の大きいものが、石塚の風隼神社の御神体となって今も残っています。(主に「新編常陸国誌」「風隼神社由緒」による復庵禅師という高僧が、興国5年(1344)に宇治から茶の実を持って来たとも、中国から帰国するとき、中国の西天目山獅子正宗禅寺から持って来たともいわれています。その茶の木が、黄門様によって名づけられ現在に至っているのです。黄門様はこのよいお茶が、清音寺の境内にだけ栽培することになっているという寺のきまりがあることを知ると嘆かれ、このあたりの多くの人が栽培し、多くの人が飲むようにした方がよいと住職にすすめました。住職もこれに応じて、古内茶は広く栽培されるようになり,この辺の特産物になったということです。

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