常北町勢要覧 1996(平成8)年 3月
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うなぎ地蔵下古内の太古山消音寺が建てられたのは古‘〈、当時は数十人もの小幡が修業をし一いた。その小僧の一人にきれいな子ども力いて、毎II、どこからともなく赤飯をた‘さん迎んできては水球の前に供えた。その小僧はあ農り話をすることもなく、師にあたるお坊さんから何を篇われても答えなかった。読経はつとめるが、友だちとも'二Iをきかないので、誰も小僻が赤飯をどこ力ら運んでくるのかわからなかった。水戸茂門様が元禄7年(1695)浦音寺に来たとき、安渡川で釣りを楽しまれた。黒のとき、一丈(約3メートル)ほどもあふ大きなうなぎをつりあげた。さすがの批門様もびっくりし、やっとのことで揃まえ=腹をさいた。すると、その腹の巾は赤飯・「いっぱいだったので再びびっくり。この.なぎはこの洲のヌシだろうと思い、この近くにていねいに埋葬した。その冊から消音寺の前に赤飯を供える-ともなくなった。「あの小幡はうなぎが人の姿に形を変えたにちがいない」と多くの′めいふくがさわぎ出し、小幡の冥福を祈って石の地蔵さんをたてた。その地蔵さんは、今も路ぱたにたっている。駁-,ーぜ頭”のお藤「ごぜ」とは、つづみを打ったり、三味線をひいたりして、歌をうたう盲目の女性芸人のことをいう。鎌倉時代に、将軍にまでかしら認められた「I卿束ごぜ頭の子孫」という人が、石塚の川町に艇〈住んでいた。元禄(1688~1703)の頃、その家に「お藤」という天才がいた。お藤は江ノ雪に上り、名優の菊之允といっしょに舞台にあがり、その技を披露した。満場の客たちは告、お藤の砿にすっかり感激してしまった。その晩、感激した讃岐(現在の香川県)の殿様からたくさんのごほうびをいただいた。ある時、水戸鼓I"!様が石塚薬師寺におしでになりお泊まりになった。その夜の婁会の席に、お藤は召された。その声はたとえようもなく美しく、菰門様もじっと聴きいりすっかり感心してしまった。そしてお藤を「水戸領ごぜ頭」とした.この後も、水戸藩のお祝いの時にはお藤を呼んで、その*fわざともいえる技に感激し、そのつどほうびをあたえた。お藤の美しい声は遠くまで響き、かな')先で聞いている人もうっとりするほどだった。また、頭もすぐれ、物おぼえがよく、とうしもんじよ唐詩や古い文僻を階11&して自由にうたにとり入れたりした。椛吉という明論のころの右名な義太夫語りは、このお藤の家に生まれた人である。
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