常北町勢要覧 1996(平成8)年 3月
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里5辿●原始時代から古代へ人々が住み始め、神社や寺ができる舗北町周辺には、紀元前1万年前から人え′が住み始めたと考えられています。細文時代になると那珂西などの台地は絶好の居住地となり、弥生時代後期には集落ができはじめ上虞がたました。古墳時代の風隼前過跡からは勾玉・土器などが出土しています。7世紀に律令国家が成立すると、附陸に瞳朝廷から認められた8つの小さな卿ができ、町城は那珂郡となりました。当時から町域(ニ鹿島神社が多いのは、鹿ルウ神宮の社殿の述乏替え朋材・を那珂郡から遮んだことと強く結びついているからと考えられています。また、このころ薬師寺や小松寺の前身である大御堂が造られました。●地方自治の確立と産業・教育の充実そして、常北町が誕生し零新時代へIリI治維新を迎え、廃藩設県が行われ水戸霧が水)i県となり、明治8年にほぼ現在の茨城県が確定。明治22年(1889)には市町村制施行により、石塚、小松、西郷の3村が成立し黄す。また、近代教育制度も整えられ、IリI治5年に石塚尋常小学校がfill設されました。大正8年(1919)石塚村は町制を施行し、東茨城郡北部の行政や産業の'I'心として発展します。また、人々の生活や産業の基盤も軒々と整備され、大正12年に藤井川の水力発電所が完成。15年には茨城鉄道が赤塚~石塚間霧運転を開始しました。昭和の幕開けとともに金融恐'慌が起こり.産業への影響が深刻となりました。やがて、世相は戦時色が強くなり、日本は太平洋戦争へ突入していきます。戦後まもなくは昭和22年(1947)の石塚の大火など混乱が続きましたが、昭和30年2月正11、石塚・小松・西郷の3町村の合併により粥北町が誕生します。教育施設の整備、環境整備の充実などが図られるとともに、昭和5了年(1982)「常北町民惣章」が制定され、町蕊一体となった剛まちづくり〃への新しい歴史がスターI、することになりました。歴史とむかし話●中世に入ると武士が台頭し室町時代には石塚城を中心に町が成立fFL,武士の台頭は常北町周辺にも及び、術陸大じよう橡一門が藤井川流域と西川川流域の蒲I1l地域に進出してきました。鎌倉時代になると、大'I唖姓那珂氏が那珂川西岸に進出し、那珂西城を鵬城としました。室町時代には、佐竹氏が那珂川の水上交迦を握り、大橡一族を圧迫し、西Ill川、藤井展流域の水lⅡ地帯を確保するようになります。浦音寺には、南北朝動乱ごろ涌躍した佐竹寅義・義教父子の蕊があります。佐竹義教から所領をルII統した次郎宗鞭は、Ill)-城の石塚城を居城としたので、石塚氏と称されました。現在の仲宿に家臣たちの町が形成され、これをもとに近世になってさらに発展することになります。●江戸時代には水戸藩領となり水運も行われ、宿場町として発展慶及5年(1600)関ケ陳の戦いは徳川家康率いる束耶の勝利で終わり、西耶の上杉氏と通じていた佐竹氏は秋川へ転封となりました。慶奨11年(1609)に家脹の子.頼雁が水戸城主となり、水戸蒲25万石が成立。以後、町域は祁奉行によって支配されるようになります・石塚村は街道筋にあったため、繍や商家が軒を並べ、にぎわいを兄せていました。江戸時代の後期になると商品作物の栽培が行われるようになり、町域でも茶の栽培が礎んになり「古内茶」として知られるようになI)ました。那珂川を利川した水述も砿要度をwし、元禄期には町域に3か所の河岸が設けられました。また、庶民の文化も興隆し、私塾や寺小鶴で教育も行われました。■黄門様と常北町黄門様で知られる水戸藩第2代藩主の光因は、常北町と深いかかわりをもっています。光囲は義公とも呼ばれ、寛文3年(1633)薬師寺に宿泊されたのをはじめ、その後何度も宿泊されています。寺内には義公手植えの白檀の木があります。また小松寺や清音寺も訪れ、安渡川では鮎釣りを楽しまれました。今でも義公の腰掛石と伝えられる石が残っており、龍漂測は義公の命名とされています。、■■■■■ゆるやかな時の流れは、やがて大河へと…。L
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