常北町勢要覧 1983(昭和58)年 3月
8/52
わたしたちの常北町は、無土器時代に端を 発し、縄文・弥生・古漬時代と、古<から那 珂川沿岸や中部台地を中心として、幾多の変 遷を経ながら発展してきた歴史ある町であり、 そうした古い歴史を物語る遺跡や古墳群、そ して文化財ガ数多<現存しています。 とりわけ、町内には、国重要文化財をはじ めとする貴重な文化財や美しい庭園を育する 古利・名利ガ数多<見られ、高度な仏教文化 ガこの地に栄えていたことを物語っています。 こうした古寺を訪ねて、七堂伽藍ガ寄を誇 り多数の僧侶ガ行き交っていた往時の常北に 想いを馳せてみるのも、何もかもガ急ぎ足の 現代にあっては必要なことではないでしようか。 号呈:i壷▼石 ▲■- 責ヨ (同元年(ハO」ハ)伝教大師ガ草創し、坂 上田村麻呂ガ奥夷征討の際宿泊したこの地に、 妾責国家のため創建したと伝えられる古剰で、 正式には、天台宗佐久山多聞院薬師寺といい ます。 国重要文化財に指定されている寺宝の 『薬 師効釆座像』と 『日光・月光両脇待立像』は、 地方的な作風を残した秀作で古い寺歴を物語 っています。 二年(一≡」ハ九)に上宥上人ガ開創したもので、 当時は中本寺一等格院真言宗京都簸恵院末で、 当地方第一流の真書道場でした。その後、世 の移り変わりとともに衰微しましたガ、元禄 戸 . 知腰因州層屈嬰 ・一 、し 言t幸一 、去「車∴ -ニ ⊥二三㌢っ 1 番ゝ三 軒ニー .1・.さ- _1二t. ご ニ華誓三。華蔓竃 こi、- ‾鐸写_t .戚 年間、水戸光淘の貝、力により、現在の地に伽 藍ガ建立され、京都から招いた以伝僧正を中 興の狙として復興しました。法厳寺は百≡口宗 の勧学所として、往時には七〇余名の学徒ガ 常住していたといわれ、代々その住職ガ学頭 擬についていました。 郷土に残存する数多くの文化遺産 は、わたしたちの先人が長い歴史の 過程において醸成してきた椅神の結 晶であり、祖先の足跡を示す貴重な 資料となるものですQ 町では、祖先から受け継がれてき たかけがえのない文化遺産を大切に 保護し、次代に伝えていくため、文 化財の「町指定」を行うなど、正し い認執と保護管阻こ努めています。 ■ 町の南平十七年(七四五)行基によって白雲山頂に 開創され、白雲山普明院と号しました。 その後、平安末期に小松内大臣平重盛公の 遺昏を埋葬して山麓に移し、七堂伽藍を完備 して白雲山晋明院小松寺と寺号を改めました。 隆盛を誇った小松寺も、天正十三年(一五ハ 五)の兵火で唐円以外悉く焼失しましたガ、 寛文」ハ年(〓ハ」△ハ)に水戸光囲より資材の 寄進を受け、修理され現在に至っています。 β
元のページ