二〇周年記念 常北町勢要覧 1974(昭和49)年 11月
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多の変遷を経て、明治22年4月1日、町村制 の施行に際し、石塚村、小松村・西郷村とな り、そのなかでも石塚村は大正8年10月1日 町制をしきました。そして昭和30年2月11日 前記3カ町村が合併し、新たに常北町として 発足しました。 旦 本町は茨城県の北西部に位置し、東西11.5 km、南北7kmにのびる山間丘陵地帯です。 (位置:東経140022′ 北岸36028’) 東は那珂川をへだてて都珂郡那珂町と相対 し、南は県都・水戸市に連なり、西は山丘を はさんで西茨城郡七会村と接し、北は桂村に 隣接しています。 町の西部および北部一帯は、標高70~80m の山丘が連なり、東南部にゆるやかにのびて 那珂川に臨んでいますが、那珂川の支流.であ り本町を流れる藤井川、西田川の流域には肥 沃な水田地帯がひろがっています。また丘陵 地帯は畑地を形成しており、麦、たばこ、茶 や園芸■作物を産しています。そして国道123号 線沿いに、街並みが続いています。 ◇町の世帯と人口 (49.9.1) 世帯数2,629 人 口10,592 男5,086 女5,506 ◇面積 5l.46k㌦ 由圃ヨ国璽 上古、常陸が高・久自・仲・新治・筑波・ 茨城の六国に分・かれていた時代には仲国に属 し、大化改新後、骨隆国誕生による七評時代 には、本町は那珂評に属していました。和銅 年間、七評は11郡に分かれ、本町はやはり那 賀郡に属したが、ここはやがて那珂郡と改め られました。当時常陸国では北は山■南は海 や湖の幸に恵まれていたとされ(常陸風土記) 特に国の北では開墾が進められたようです。 また関東の地は武士の発生の地でもあり、 本町勝見沢には「鎌倉〕反」として、八幡太郎 の逸話や寺社仏閣が多く残されています。 文禄年間に秀吉が天下を治め郷庄を置いた とき、石上郷、入野郷、鹿島郷、日下郷に属 しました。のちに郷庄を廃し、郡をもって村 を統治する時になり、本町は那珂郡から茨城 郡に属し、水戸藩支配の影響を受けながら幾 -- -√ ‾ ▲P ■ヽ■ -■ ′ヽ ト∵∴ ■ニ、卜. ■′・一 ・∴Jて・■ ■ t■■■∵_● ヽ (彰
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