広報 しろさと No.033 2007(平成19)年 10月
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水戸市谷中にある、回天神社の役員の方が、ある日ひょっこりお見えになりました。回天神社は、水戸藩内の幕末維新で殉難された方々を記っている神社です。その役員の方は、明治元年9月”日に、石塚地内において戊辰戦争に敗れ、水戸城奪還に向かう諸生党の市川三左術門勢と、それを阻止しようとして出螺してきた天狗党の滞士が職って、石塚で戦死した子孫の方が神社を訪ねて来られて、ぜひ職死した場所を探して欲しいと頼まれたので来庁されたという事でした。文献を見ても、石塚でそのような戦争があったという記述はあるが場所が明記されていないという事です。常北町史にも、140年前の訪ね人垂砂戦死者の名前は記載されており、その中の子孫の方が戦闘の場所を尋ねて来たので、石塚地内にそれらしき事跡が残っていないかという事でありました。その後、水戸城弘道館の戦に敗れた市川勢は下総方面に敗走し、天狗、諸生の争いも終止しましたが、140年経た今でも、全而的な氷解にはなっていないのかなとも思いました。石塚での賊死者は、塀和善之助勝時、山中金吾幸敬、田(多)治見荒次郎国知、大普根金之助正則、照沼荘蔵則亜、となっています。わずかな手掛かりでもあればと思っているところです。一傾いて疲れしま式の案山子なり山崎正行新涼や亀は無曲に水揺らし飯田勇一カーテンの白く肱しく夏惜しむいそべきよ花野風窯出しの色ょかりけり仲田まらゑ礎芭蕉朝日射す葉の証なり鯉測寿美恵秋雲と溶け今ふ煙浅間山阿久津あい子酒蔵の煙突高し蕊鶏瀦高橋芦江油絵の入賞通知豊の秋今瀬多代美良夜なり小走りに過ぐ猷蕊雌燕静江金銀の紐の揺れをリ早稲実る飯村昭子蝉時雨ふはりと焼ける昼のバン飯村愛子日焼の子胸の名札の揺れてをり竹内幸子悠開けて風入れる衣虫の声田所厚子愛珠沙薙色濃く旅の雨やどり淑容博子猷撫蝿莱むら分けて急ぎ去る岩下金司秋草の陰にひっそり逆祖沖蒋田多蔵和襖の山水の絵もたれ松田口勝元幾度か同じ話も暑さ故仲田こう俳句競いつつ技を褒め合ふ貼将こそ老いらの健康つくるスポーツ杉山みらこ自給野菜作るを若きら受け継ぎて土の恵みの喜びを知る宮本ふみ江慨像塗むところどころに飾りある野草の生花が風惰を添ふる所美患子三十五年嘩言来てサボテンの花突けり三十センチほど白く気高く家事すみて一騒獅輪舞ぶりと心身ゆだぬ渇き湯舟に山形式妙溢れくる思ひを胸に今息子らの結納の盃を確と受けたり渡辺千紗子瀦睡謬灘熊聡舌に秋山愛子蕊趣謹雲大森久子厨に灯の点る待てるや儲は今朝も来て鳴く哉楊の小枝に高堀よしの来る度に発育目立つ曾孫足燃孫娘は何時しか砿かなる丑佐川あや友がくれL撫子の花生けくれば甘き春リに心安らぐ岩下通子朝な夕田めぐりするは楽しけり実り笠けし茂金波うつ‐鶴田すが山間の小川のしぶき岩の上釣り糸垂らす親子なごやか阿良山ウメノ朝な夕愛でし深紅のさるすべり夜半の合風に見る影も無し岩下美知野短歌一L愛珠沙華白き花びら百合に似て部屋いつぱいに巷リ来るなり市川蕊子服の見えぬ友の苦難の遠き日のしたたかさわが心をえぐる薄井ひろ潔しとも淋Lとも兄ゆ典白なる五葉つつじの咲き満つ山は枝不美探みくれし脚にのこりぬひとまわり大きくなりたる孫の掌の温み片見和枝「リフト淀乗り霧降高原里キスゲ」を見る八十路のわれは壮快な気分川上千代子我を背に祇園祭りを見せくれL兄は在弐さで星降る如し島愛子惜しまれて切られし趣砺老杉の生命を示す年輪を迫ふ多田志保子娘よりおくられて来L番留に心ときめき手に頂きぬ坪井きよ子富士登山成したる息子よりメールあり病室で見る雲海の日の出萩谷盗暮子郵便を取る時宛名は三代目歴史振り返り見る我弐でに和知美智子優勝を決めた満塁ホームラン職リや農ぬ大炊声の甲子闘蒋田佐智子じわじわと迫る台風コース変え北野武技下ろし盛謝する木の声がする山本隆荘秋雨は稲穂もいやと背をふる中島芳春'四広報しろさと2007年10月式暮しろさ曜

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