広報ななかい No.255 2004(平成16)年 9月
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杓史編さん調査協力委員 小坪 〈 ■子 地方改良事業と「七会村是」の策定 思フニ吾国家ノ現状ハ、戦後尚日浅キ時ニア リテ国費多端ナリ、又日露役ノ結果一等国こ そんしょく 列セシモ、世界列強二比シ万事遜色アルノ事 実ヲ示セルノ現状ナリ ななかいそんぜ これは、日露戦争後の国情を表した=「七会村是」 の 一文です。 明治三十七年(一九〇由)にはじまった日露戦争は、 日本の勝利で終結しましたが、戦後、国民をまってい 」,l⊥ 「七会村是」表紙と扉(七会村役場蔵) たのは、「多端」な国費をまかなうための増税でした。 あいつぐ増税は、若い働き手を戦争にとられ、さらに 肥料の不足や億上がりで生産力が低下していた農相に とって大きな打撃となりました。 「一等国」に肩をならべたとはいえ、深刻化する国 ほしんし上うLよ 内の疲弊と社会不安に対し、明治四十一年戊申詔書 が出されました川戊申詔書は、戦後の勝利気分をひき しめ、国民に産業奨励、勤倹節約、風紀改善を説くも きっこう ので、 方改良事業を全国的な運動として開始します。茨城県 では、知事の指揮のもと、同四十二年五月に 「都市町村是調査標準」が布達され、町村是の策定を 軸に地方改良事業が推進されていきます。 西茨城都内の町村は、明治四十三年一月からいっせ いに町村是調査に着手しました。七会村でも、村長、 村会議員、小学校長ら三九名による村是調査委員会が 組織され、同年十二月には調査が完了し、明治四十五 年二月「七会村是」が策定されました。「是」とは、 辞書をみると「正しいこと。一般が認めてよいとする ことごとあります。つまり村是とは、村の進むべき 方針を定めた経済振興計画書とでもいうべきものでし た。 策定された「七会村是」は、将来の方針として「農 ヲ以テ立ツ」農本主義を柱に、農業生産の向上による 「富力増進」と、教育や風紀改善による「良民養成」 ・きょうし′几l}く を掲げています。そして、扉に筆書きされた「協心教 れ′上′ヽ 力」(心をあわせて力をひとつにすること)という言 葉に込められているように、村民が一致協力して村是 を実行することによって、七会村の発展が目指された のでした。 くーハ お 地 区 小 勝 塩 子 徳 蔵 塩 子 塩 子 お 地 区 下赤沢 下赤沢 塩 子 小 勝 ノー -、 一一一 一、 常塩小小 北 地 た 町子 勝 勝 区 か (( 小小 大根 さ く や み 死亡者 粂 マサ 牛久保成彬 鶴田みき子 高倉 美保 め で た 出∵生児 駒井 幹太 阿久津美樹 大石 洋平 秋山 空雅 ハイステンノア 瀧林 畠 本 、 ・′ ) ご 氏 性別 (男) (女) (男) (男) (男) 名 幸 治 千恵子 昌 也 まゆ美 92 75 78 94 年 歳 歳 歳 歳齢 悦勝政 子義延浩 7月・8月 届出分
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