広報ななかい No.178 1991(平成3)年 7月
6/8

ほぼ 小膵の略中央の山腹に、日 蓮宗長久山大行院修多霹寺が 見られる。 この修多羅寺を開山なされ た天日目盛聖人は、父三浦若 狭守泰村の遺児として成人な かい された方で、甲斐国(山梨県) とぐさ 木財郷塩山の南東にある天目 山に於いて生誕された。 父三浦若狭守泰村は、宝治 元年〓、二四七)丁未歳六 ちようはつ 月、時の執権北傑時頼の挑発 じよう に乗ぜられ、一族二百六十余 モば 名が鎌倉八晴宮の側、右大将 軍頼朝の霊廟法華堂に於て自 刃して果てた。 泰村の妻は亀岡別当法印定 親の妹で、その当時聖人を壊 ひそ 妊していたが、密かに鎌倉を 逃れ苦労を重ねた末、天目山 に身を隠したのである。 宝治元年丁未歳八月天目山 に於いて出生、父泰村等自刃 してニケ月後のことである。 聖人は成長するに従い天目 山中にある栖薯寺に於て勉学 に励み修業を重ねた。 この寺は源八幡太郎義家の 日蓮宗、修多羅寺について 文化財保護委員長 阿久津 忠一 弟で、武田・佐竹・平賀の祖 である新羅三郎義光(? Ⅰ一、一l一七)の代より、代々 参詣を継ぎ伝え、天正十年 (一、五八二) 壬午歳三月十 日、武田勝頼の自刃に至るま で、鎮守祭神の霊山として崇 敬してきた寺であり、聖人の 祖先が崇拝した寺に於て、出 生修業が出来ることは何かの 縁ではないだろうか、聖人成 人するに至り出家し曹洞禅を うけ勉学と修業に励み、その 間常陸国(本県)加倉井の披 かづさ 木井家や、上総(千葉県) の もはら 藻原の城主の縁故により、日 蓮聖人の側僧である日向聖人 ′し 修多羅寺の近景 との面識することができた。 このことによって日向聖人 に従い身延山に登り、身延山 に在寺していた日蓮聖人に面 奉することができ、給仕とし て仕えることになった。 給仕として仕えた聖人は仏 に仕える心構えと真剣一途な 心に、遂に中老の一聖に加わ り、一心不乱と至誠の心に感 動した日蓮聖人は「日盛」名 みのあじやり を賜り美濃阿藤梨と号され た。 小膠の地に至りしは、日盛 聖人の高祖父、三浦介荒l一郎 義澄が、源頼朝の陸奥討伐の 役に出陣、小勝の地に於て兵 馬を練り、軍樫を整いた地で、 (源氏屋敷)聖人も先祖の地 であるとの縁もあって、小膠 もつぱ の地に至り此処を離れず、専 ら仏教の布教と師弟の養育に 専念し、ここに寺院を建立し、 長久山大行院本門寺と号され る。正安二年(一、三〇〇) 庚子歳霜月十五日である。 聖人は延元l一年 (一、三三 七) 丁亙歳四月二十六日天寿 九十一歳を以って小膵の地に 於て檀徒の人々に借まれ つゝ、化されたのである。 其の後累代寺僧も変り、特 に明治四年より廃寺となり、 ひとしお 淋しさも一入であったが、大 正元年王子八月二十九日、第 五十一世日誓上人により中興 開山となり、後継第五十二世 日応上人となり、昭和五十五 庚申歳四月八日まで同寺並に 檀家の為清輝されたが、老令 のため退山することになり、 同日第五十三世日宥上人が入 山され、檀家一同の期待を全 身に負って仏道教宜に活躍さ れております。 今後寺の発展と檀家の幸福 を磨って日宥上人の活躍を期 待するものです。 本村に於ける只一寺の日蓮 宗は、このような歴史のある 大切な寺であることをお伝え し、益々の発展を望みます。 参考資料 西部御士史、地名辞典、歴 史辞典、伝教辞典、茨城の 歴史、他 ◎訂正とお詫び 平成三年三月発行(第七六 号) の「心越禅師と光囲と 仏国寺) の記事中、左記の 通り誤りがありました。 お詫びして訂正いたしま す。 一\ クマガイソウ咲き競う 塩子岩下仲田通幹氏宅で、 五年前教本を植付けたもの が、約200株までに増え開花時 にはみごとな花を咲かせて、 山野草ファンの目をたのしま せているそうです。 庭先でこれだけ増える事は 大変めずらしいとの事です。 広報ななかい 巷

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer9以上が必要です