広報ななかい No.176 1991(平成3)年 3月
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「心越禅師について 心越禅師はどんな僧であっ たのか調べてみると、出身は みん 明(現在の中国) の国で生れ、 中国年号の崇禎十二年(一六 三九)出生している。延宝五 年(一六七七)長崎の興福寺 に招かれ来日していたが、同 ぎんげん 寺の或僧の謹言によって、幽 閉されてしまった。このこと を知った光閲公は、これを助 け天和元年(〓ハ八一)江戸 小石川の水戸藩邸へ呼誘した。 禅師が四十二オのことである。 このことがあって以来光園 公と禅師との交流が親密の度 を増していった。禅師は仏門 に身を捧げている他に、文化 一般の知識にも勝れ、絵画や てんこく 纂刻、或は詩など得意とする 知識の豊富な方で、見識の高 い僧である。光園公は、禅師 と一父流して以来、各方面の知 識を学びとること大であった という。光園公が度々領内を 巡遊して、各所で詩をつくっ ているが巡遊するときは、度 文化財 心越禅師と光固と仏国寺 文化財委員長 阿久津 忠 一 々禅師と同行し信任の厚い僧 であった。 禅師は、今の水戸市八幡町 い にある寿昌山祀園寺(旧名岱 ぞう 宗山、天徳寺) の開山僧で、 開山は元禄四年(四月又は五 月)で、この寺に十l一年間在 寺していたが、元禄八年(一 六九五)九月三十日、この寺 に於て入滅した。 祖国を捨て仏門に身を投じ、 水戸藩のため貢献した偉大な 僧として、その死は光園公に とって、悲しみと落階は限り なく悲嘆にくれたという。禅 師は何時仏国寺へ来られたか は不明ですが、仏国寺を訪れ 次のような見事な詩を残して いる。 心越禅師の仏国寺への詩 千尺巌頭湧梵音 せんとやくがんとうばんおんわ 千尺の巌頭に梵音湧き 松涛万堅径幽探 し享つじ沖 ばんがく みち ゆうしん 松涛、万整、径、幽深 絵是大悲不二心 雨 雨う華 華げ尽 尽主見 くと皆 見甘 露 かんろ る皆甘露なるを ′ ヽ ■J こたいひふにこころ て、れ悲の 是大不二心 (解)千尺の巌頭から、仏の声 が起り、松風の音は谷々に 響き、道は奥深く、天から 花かと思いる水しぶきが散 り、みな甘露(苦しみを去 る壷液) である。これは稔 て仏のあわれみの心であり、 ただ一つのみ心のあらわれ である。 二、水戸光固公について 誰もが水戸光囲公といえば 知っている通り、立派な人物 ですが、この光園公は自分の 領内のあちらこちらと巡遊し ては、各所で詩をよまれてい る。その数は数百ともあって 各所の風物神乳仏閣で読まれ ている。私達の七会にも巡遊 して仏国寺、二泊の宿をして おります。 塩子仏国寺へ光囲公一行が 来られたのは元禄十一年(一 六八九)四月十八日のことで す。光園公七十一オのときで した。光囲公一行が仏国寺へ 来られた時は曇天で今にも雨 が落ちるばかりの天候であっ た。翌十九日は雨天で寺より 出ることも出来ず、住職相手 に茶飲み話をしていたが、牛 后になり雨も少くなり雨の間 をみて奥の院の観音堂の参詣 をする。 巌頭にある観音堂より見る 奥の院の絶景にしばし息をつ まらせた光国会も、その壮観 さに歩行さへ正常ではなかっ たという。 奥の院の参詣を済ませた光 仏国寺の梵鐘 広報ななかい 6

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