広報ななかい 第146号 1984(昭和59)年 7月
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(3=昭和59年7月31日 な な か し\ 第146 号 七月二十九日(日)早朝より 村内二十五の区長さんを中心に、 各戸一名が参加し、河川の一斉 清掃が実施されました。河川清 掃は昭和四十八年より毎年行わ れており年中行事の一つとして 定着した感があります。 本村の消防団長として村民の くらしを守りつづけた功繚が認 められ、岩下一議氏(88才)が 一助 藍綬褒章に輝く 藍綬褒章の栄誉に輝きました。 昭和十五年三月十五日、七会 村警防団負として入団以来、警 防団団員七年六ケ月、警防団副 団長七ケ月、消防団副団長二十 一年一ケ月と活躍され、その実 繚が認められ昭和四十四年四月 年々河川は、空き缶、空きビ ンのポイ捨て、生清雅排水の流 入等で汚濁され、自然が失われ も少なくなり 学万博あと200日キャンペJ/ 「クリーン作戦も」・ 集落を流れる川は みる間にきれいになりました 二十一世妃を担う子どもたち に夢と希望を与える科学万博、 つくば.85の開幕あと二百日、 (八月二十九日)を記念して、 村内単位子供会の十九団体、三 百三十九名も参加し「クリーン 作戦」が同時期に、村内各所で 行われました。子ども会育成連 合軍田園都市センター協議会 が中心になり、村内の道路周辺 に散乱している、空き缶、空き ピンを一つ一つ拾い集めました。 子どもから大人まで、私たち 一人ひとりが環境を守る意識を 持ち、七会村の美しい自然を守 りましょう○ 三十日、団長に就任、現在に至 っています。奉職以来四十四年 有余、郷土を災害から守るため、 献身的に尽力されてきました。 広く住民の声をききながら消 防力強化のため少数精鋭主義を 唱え、民主消防の基盤確立に努 力され、組織を整備改善し、施 設の拡充強化をはかる等、その 功庸は消防団員の模範となって います。 ります。自然保護のバロメータ ーとよばれる「カワセミ」は近 年見かけなくなりました。私達 を取りまく環境の汚染は、思い のほか早く進んでいます。 又、秋の台風シーズンに備え 災書の未然防止のうえからも河 川の清掃は役立ったことと思い ます。 第七回付民球技大会が七月二 十二日七会中学校グランドにお いて早朝より開催されました。 二百五十四人の選手が参加し、 ソフトボール、バレーボールと も猛暑のなか熱戦が繰り広げら れました。 日頃村内に住んでいても疎遠 になりがちな人が、一つのポー ルを追い、好プレーに拍手を送 過日、富田縫工株式会社社長、 高田房盛氏が社会福祉協譲合を 訪れ、福祉のお役に立てて下さ いと三万円を寄付して下さいま した。また水戸ヤクルト販売株 式会社からもー万円の寄付を戴 きました。有難うございました。 鼓笛隊セット 贈られる 幼児期よりの防火教育の重要 性を考え、防火活動の高揚をは かるため、日本防火協会より、 「鼓笛隊セット」が交付され、 六月十五ロ、その伝達式が七会 幼稚園で行われました。 さっそく園児たちは手に手に 楽器を持ち演奏?を始めました。 秋の運動会には、父兄の方々 に見事な演奏が披落されること と思います。 社会福祉協議会へ 寄付二件 ソフトボール 一区 チーム4連覇なる り、珍プレーに大爆笑が沸き上 がり、住民間の交流がはかられ たことと思います。 熱戦が続くと、選手もハッス ルしすぎ、残念なことに今回も 一人負傷者が出てしまいました。 準備運動を良く行い怪我のな いよう注意してプレーをするよ う心がけましょう。 成繚は次のとおりです。 七月十九日、本村を訪れた、 小林 彬氏は、教育の向上に役 立てて下さいと、グランドピア ノ一台を寄贈されました。 小林 彬氏は、塩子出身で水 戸市内で歯科医院を開業してお り医学博士でもあります。今ま でに、中央公民館、塩子小学校 にもピアノを寄贈していただい ており今回は、七会中学校に寄 贈されました。 グランドピアノ 寄 贈 楽器 を 手 に さ っそ く 整 組 合 せ 表 *ソフトボールの部* 優 勝 さ叱伊 江戸時代の郷土の史書である 「水府史料」に、当時の小勝、 塩子のあらましのことが出てい る。小勝村は戸救およそ百八、 塩子村は首二十七戸となってい る。 さて、その両村(現在の両字) 〓Y一Jへく・り とも「稗倉あり、村用意貯稗倉 なり」とある。 郷倉の制度は江戸時代以来、 凶作の年に備えて名郷村に設け られた穀倉である。昔は天災に よる冷書や干ばつなどで農作物 が不作となった時、現代のよう に外国から食粗を輸入すること ができなかったので、その対策 をしておかなければをらなかっ た。すなわち各集落ごとに倉庫 を設けて、そこへ穀物を備畜す ることにした。蓄える穀物はあ わ、ひえなどが多い。ゆえに郷 ひえく員 倉のことを別名「稗倉」ともい った。あわやひえは主食として はおいしいものではなかったが、 永年の貯蔵にも耐えるのと、干 ばつにも強い作物なのでふ昔は どこの農家でもいくらかは作付 けした。 ところで、私はこの郷倉が塩 子中に何か所、それがどの辺に (4区).〃の内、上宿 (7区)⊥・下赤沢 (1区)臆厳 (3区)摘、中郷 (8区)大綱、真淵 (量鳩鮎㌔本大開 (2区)北の根、押寄木 (6区)岩下、仲郷 あったかを調べてみた。塩子の 阿久津藤男さんが江戸時代の詳 しい図面を持っていたので、同 氏のご協力を得て左の四か所に あったことがわかった。 岩下 ハジ 三五八番地 二十八歩 大関 藤倉一ご六三番地 二畝 四歩 ぶ 塙 宮戸l、七九六番地 一畝一歩 戸ノ内むぐりや二、〇七二番地 一畝 十歩 四か所の合計は五畝二十八歩 でこの土地については税金が免 除されていたという。 ⑳・地番は現行のものとは符合 しないかもしれません。 ご■つ くら 墟子 の 卿倉 七会村文化財保護審議委員 旭 大 森 *バレーボールの部* 優 勝 (一歩は三・三平方メートル) (一畝は九十九平方メートル) さて塩子の郷倉についてその 建物の大きさなどにつき、古老 をたずねてきいたところによれ ば、建物はあまり大きくはなく 六坪(約二十平方㍍)位だった という。四か所の郷倉のうち岩 下にあったものが、その後仲田 耕一氏の先代が、集落から譲渡 を受け自家用として現在も使 用している。先日この倉を見ま したが、屋根を革ぶきからトタ ンぶきに替えただけで、大きさ は元のままだという。間口三・ 六メートル、奥行二・七メート ルであった。 岩下の郷倉は、江戸時代とは 違った形で昭和初期まで機能し ていたという。すなわち、集落 の協議により、毎年なにがしか の籾を集めてこの倉庫に貯威し 集落内で端境期に飯米の不足を 来した農家があればそれを貸し 付け、秋になって収樺した時速 すことになっていた。曹の農村 における共存互助の生繕の知恵 でもあったといえよう。 ●写其は現在も使われている 仲田耕一氏宅の郷倉 {4区二〓の内、上掴 へ8区)大網、典璃へ蚕棚) (1区)旭戯 へ2匡)北の根、押寄木 (7区)L・下赤沢 (6区)岩下、仲郷 櫨本、大棚 孟)粘㌔ (3区)涌、小間

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