広報ななかい 第136号 1982(昭和57)年 5月
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か い 第136号 (3)昭和57年5月31日 結樗予防事業に対する多年の 功労が認められ、財団法人結核 予防会から本村へ「健長持別賞」 が授与されました。 同会の五十六年度表彰式が四 月二日、東京都千代田区の第一 生命ビル内で挙行され、結横の 健康診断、予防接種、息者管理 七会村議会鶴暗合は四月二十 三日に開合され、線素された条 例二件のはか城北共同放牧及び 衛生一部事務組合議員の選挙が 行われました。 議決された議案書の内容につ いては次のとおりです。 〇七会村特別職の職員の給与並 びに旅費及び費用弁償に関する 条例の一部を改正する条例。 村長答辞別職の報酬が引き上 げられ、四月一日から適用され ます。 昭和57年第二回七会村議会臨時会 等に実績をあげている全国から 遥衡された五十二の市町村に贈 られたもので、当日付からは村 長外関係者が出席、席上に於い て同会の名誉総裁である秩父宮 妃殿下より村長に表彰状と記念 の楯が授与されました。 〇七会村税条例の一部を改正す る条例 主な改正点は 一、前年中の所得の金額が二十 万円にその世帯員救を乗じて得 た額以下の者には均等剖検が課 されない。 二、寡夫控除(年間所得三〇〇 方円以下の場合)二十一万円が 追加されました。 三、その他固定資産税の負ぬ桐 整率の改正、肉用牛に係る非課 年度の延長等が改正されました。 事l〜′▼≡一三′J′ 妃殿下より賞を受ける村長 この度、七会村の郷土史をま とめた「七会村民俗誌」が、塩 子在住の大森旭氏の手により発 行されることにをりました。 昭和五十六年度茨城県文化財 顕彰事業(出版助成)作品に選 考され、その内容は民俗生晴や 年中行事、民語、民謡、伝税等、 貴重な研究をまとめあげたもの で、後世に伝える郷土史として の意義は極めて大きいものと思 われます。 村郷土史の資料は極めて乏し くその中での資料集め、腐集辛 労苦は計り知れないものがあっ たと思われます。わが村の民俗 の歩みをいくぶんでも理解しか つ後世に伝える資料として大き く役立つものと考えております。 尚、辞しい聞合せは、七会村 ○城北放牧及び衛生一部事務組 合績員の選挙 選挙の結果次の者が当選いた しました。 郷土史 〝七会村民俗誌〞発行 仲 薗 片 田 都 岡 教育香具合事務局へ、 ご希望の方には、 一部、一、000円で頒布しま す。 四月三〇日、徳蔵青年会々長 岸野政司さんが役場福祉住民課 を訪れ、金一封を寄附されまし た。 去る四月一四日、徳廠大師祭 において、青年会主催、第二回 のど自慢大会を開催したときの ≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡室≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡≡l≡≡≡≡■ 福祉向上にと寄附=徳歳青年会 昭和57年度体育関係行事予定 一 明るい家庭は健康から 家族そろってスポーツに奉加しよう 曹者略歴 明治38年10月15日生 塩子1.071番地 七会村 文化財保護審譲全委員 大 会 名 期 日 会 場 備 考 七中グランド 第5回村民球技大会 8月1日 〃体育館 ソフトボール バレ・-ポール 第6回村民体育祭 11月3日 七中グランド 一 般 村 民 昭和57年度 村民バドミントン大会 12月中旬 花山体育館 高校生以上一般村民 対象 ソフトボール教室 ㊨ 花山グランド ソフトボールクラブ バドミ ント ン教室 11月下旬 花山体育館 高校生以上一般村民 (40名) ス キ ー 教 室 211 ~13日 月日 山形蔵王 青年会共催(20名) 会費13,000円 去る四月一四日夕方より十五 日深夜にわたって七会村全域を 襲った集中豪雨は、塩子小学校 観測で一六一票一四日一七時 〜一五日二三時)を記録し、村 内各地に甚大を被専をもたらし ました。昨年十月二三日の台風 二四号の災害の傷跡も癒えない うちに、つづいて被害に会われ た方々へお見舞申し上げます。 四月一七日現在での被害概況 は床下浸水十戸、田畑の流出二 益金の一部一万円を、七全村の 礪祉向上のお役に立てて下さい と寄附されたものです。 徳蔵青年会の皆様の善意に感 謝いたします。 ‥‥‥集中老南=村内‥で蕾ぼれ‥= ・五加、田畑の冠水一四・五加、 道路の被害(村道)一一ケ所、 河川の被害(村管理分)四五ケ 所等であり被害総額は約一億五 千万円にのぼります。 村では応急措置として浸水家 屋に対し消毒等を行いました。 公共土木施設、農林水産施設 についても、関係各機関と密凍 を連携を取りつつ災専復旧事業 を進めてまいりますので村民の 皆様のご協力をお願い致します。 どこの地方へ行っても、どう 解釈してよいのか全く意味のわ からない変わった地名がありま す。 小勝にも北ノ根に「サット」、 押寄木に「シボウ」・「アピノ ジ」、それに「マスガサー(沢)」 など、まことに不可解を地名で、 それがどこから釆てどんを意味 を持っているのかわかりません。 それらにはアイヌ繕の変化し たものや、方舌の耽ったものな どいろいろあると思いますが、 押寄木の「マスガ沢」について は古老から聞いた話によれば、 速い昔から明狛犬正の頃まで藤 井川に鱒がのぼったそうです。 なかでも水が豊富できれいな 小勝 阿久津 広 三 マスが沢や、徳蔵の八ッ瓶川を どへは沢山のぼってきて、春の 代かきの時をどは、田圃の中で 鱒を捕まえることができたとい うのです。 それが不思議なことに、マス が沢や八ッ瓶川で捕った熔を食 べた人は、重い病気になるか死 んでしまうといわれていて、そ れが恐ろしいので人々はみな、 その脾を捕る人はなくなったと のことです。 ところで何故そうなったのか というと、マスが沢の水源地は その昔、鹿島神社が祭られてあ った高田山の山麓にあって、マ スガ沢をのぽる鱒はその参詣の ためであり、八ッ瓶川へのぼる 博は、八ッ瓶様参拝のためであ ったといわれていた。それでそ れらの絆を食べると神罰によっ て病気になったり死んだりする のだといわれていたので、博を 捕る人はいなくなったとのこと です。 そこでマスガ沢の名称ですが、 これを人によって、増ケ沢、益 ケ沢、又は桝ケ沢などと書いて いるようですが、それは前述の 伝説から考えて「鱒ケ沢」と書 くのが正しいのではをいかと思 うのです。 このようを地名の由米につい ては、必ずしも明確ではないよ うですが、こういうことは考古 学的にも、歴史の上からも網査 研究して意味を明らかにする必 要があるのではをいでしょうか。 洗出した 水田 (塩子地内)

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