広報ななかい 第29号 1955(昭和30)年 7月
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会 村 報 七 (2) 帯=十九早 昭和三十年七月十日 結 び 昭和二十七年十月本村報労 四号に本論を戟せ始めてから 今回まで周に二年単にな喀。 その間にl一、三回休んだこと もあつたが、覚外に長くなつ た。随分長々と寄いたものだ と皆様に笑按れると思うが、 私としては毎月号を追つて草 稿した訳でもない?鼠こんな に長くなるつもりでもなかつ た。一年程度で完結したい方 針で起草したが村報の原稿が 意外に豊富だつたので勢い小 刻みに掲載されることになつ たものであらうと思う。まだ 完結にならないけど、余り 長くなるのも程度問題だし、 虫重な村報の相当のスペイス を独占するのも本意でもない し、皆様も叉かと思はれるだ らうと想像打出乗るし、それ に今回は村当局理事者も更新 し、新しい鶏舎も田粥たのだ から村報の論文も更新するの がよいとも児はれる。冥はま だ教育調設の問題(特に中学 媒)、青年会の課題と責任、 村内各種轍幽(大は村長から 小は生産都民に壷るまで)の 採取民の選任の問題、をの佃 忙ついても愚見を開述し、然 る後に結論としてま孟まつた ものに仕立上げたいよ且つて 議案オー号 昭和甲年度七会柑歳入歳出追加予算 歳 入 合 計 円 466.815 .167.515 440.671 10.060.052 金 金 金 5国庫支出 6県支出 8繰 越 歳入合計 春樹⑬璽忽 計画について 塩子郵便局長 阿久津 歳 出 前回まで 聖星塗額 円 3…‡0.777 3.331.736 296.890 486.000 247.800 14り,2りり 746.63り 9.80こ).889 追 加 予算額 円 一2.400 71.100 15.700 700〔)0 15.3Ulj 2.000 73.663 250.163 て省略し叉の機会に譲ること にした。 放て私がこの小論を敢えて 起稿した理由は牙四号でl応 書いて置いたがをの根本は厳 格な科学的技術の普及は科学 する農家の創造なくしては不 可能だし、近代的農家の創造 は生活故事から農家更生へと 発展すべきものだと気づいた からである 併しこの二年半 を回顧してみると社会の発展 は非常な推移を示し農村も亦 自力更生への力強い歩みを辿 ってきたと言へる将この村に して旦二年季孟宗とを対比 してみると凛某夜術の而でも 経営の耐でも叉僅活改菅や各 機関の清動理念においても格 段の進歩が見られ、私の論旨 は既に暫新さもなければ指導 性もなく皆様だれも有つてい られる常識だと思うくらいで す。私はこの論について何か の参考書を利用した点はなく ただ公務の余暇を利用しての 零細幾程皆の体験から感じた ことを体系的に構成化したも のにずぎない。従つて空想的 に独断的で皆様からみたら実 に甘い考へ方だと云はれるか もしれない。私自身価値のあ るものだとは毛頭思いつては 合 計 いたのだつたが、 円 333.177 3.402二838 312.590 556.00U 26:i.100 14コ.2り0 引2.613 10.n60.052 1議 会 費 2役 場 翼 3警察消防費 4土 木 費 7保健衛生敷 11選 挙 費 13諸支出金 歳出合計 \、一rノ こ十 ( 守男 これ等も総 ニ、讃禽と村政■ 干デンの花園でアダムとイ ブが、悪魔のペテンに引かゝ って、軽牢把も.禁断の木の実 をバク付いて以来、人類は無 数に増加して、今や世界人口 二十数億といわれるに室つた ことは前述の通りで、それら が各々部落をつくり、社会を 純絹し、国家を構成している ことは説明を要しないところ であるが、人あるところ政治 あり、政治あるところ必ず政 党が存在するてとも、立志政 .ノ いない只私は皆様に問題を提 供したにすぎない。従つて私 の論旨を全面的に啓定し或は 一部変更しょうが兎に角どの ように解され、どう批判しょ うがそれ按皆様の勝手であり 自由です。只私としては欲を 言へば村の更生を本気で考赦 している人達の内、ただの一 人でも賛成していただける者 があれぼ望外の串です。皆様 は私の論旨に徹底的な批判を 加へ皆様自身の充賞し女史生 論を打ち出してくれたらこれ 以上の喜びはありません。 農村克生の問題は顛英国難 な社会問題で感づ、経済間層 である。従つて観念や政治力 ではどうにもならない。農村 経済の間雷挨流諸士地に親し む皆様の一人一人が解決すべ き問題で一人や二人の有為の 人材により指導されることに 期待すべきものでは断じてな い。そんな生やさLい問題で はないし、叉観念的なもので もない。現在社会棋構内の遵 相聞題株それ礎把甘い考へ方 を許さない。併し私は木村の 更生は必ず実現出乗ると確信 している。少くともその宍力 は充分にあると信じるし皆様 自身を除いて誰が遂行H締る のか。本当には皆様に充分完 遂するだけの実力を有つてい る管だ。否現に着実に進行中 だと思つている。甘常大地を あ寓已・■‥“ 愛し、神秘な生命力を栽増肥 育しっ1ある皆様の心はおの づから郷土を愛し、村の共同 生活の葦展をねがう大きな温 いものに発展して行くのは少 しも不思議でもなく必定だか らです㌣日火拝して農耕に精 根を打ちこまれる農家の皆様 こそ村の更生の唯一の増進力 です,皆様に最大限の敬意と 感謝の意を表し、備ほ一層の 御健斗をこそ期待いたしま す。 最後に長い間菓重な村報の 相当なスペイスを私のために 許与され毎度乱筆な原稿にも 拘わらず丁重な御取り扱いを 下さつた編集当局の御好意と 御愛読下ささつた方々に対し 心から感謝いたします。私の 小論が何等かの意味で多少放 りとも皆横にプラスになるも のがあつたら望多の車です遠 庶のない御批判と御教示を下 されば今後も皆様と共に肇へ てみたいと思います。備ほ私 は数年前から所謂栄週栽棉洪 を研究英雄してきました・な かく面白い濃訟で増収出窮 ます。今後機会があればこの 方法による増収方法を発表し 皆様にも研究して頂きたいと 且つている訳です。 皆様長い間紙上を通じての 御厚誼あらがたぅございまし た。皆様の御健康と御発展を 祈り記別れいたします。以上 繰り返されているのである。 この点はプライスも強く指摘 しているのである。即ち、措 く西欧文明の混放ともいわれ 阿 久 津 生 治が試合数泊である以上、政 党は政治の横棒として童生す る 然的不可革的の約」といわれ ている通り、何ら不可思議の ことではないのであつ七、渾 の東関を問わザ、時の首今を 玲ぜず社会は常に治者と非治 者に区分芦れ、政治の道営汝 によつて行われ、政寧按 中年拗 る、アテネでは、ソロソの簡 捷が麓かれて間もなく、農民 党、平原党、海岸党などの政 党が生れ、下つてローマ時代 に於ては、マリウスの平民党 、シーザーの壊族党が出現し て互に率つていたことは歴史 にょつて明かである。日本に 於ても曾我、物部の崇悌党対 誹彿党の血なまぐさい対峰か ら、藤楠両族の党争、更に漁 平二豪族による武門政治Ⅵ争 となり、世は遂に戦国の群陳 謝接となつて、あだかも現代 の小党分立を思わせる状態の 如く、各々勢力拡張のため、 或は連衡合縦の術や、或は遠 交近攻の策が行われ、幾匪か 離合集概して、上杉、武田か ら、横田、豊臣へ推移し、吏 に徳川三百年の政樺に落ち付 き、そして明治維新を経七今 日の政凝政治に進んだのであ る0 この様に国に致箆がある以 上、その地方にも叉、それに 耕するものがあつたとしても これを否定する訳にはいかな いと思う。 そこでわが七会の村政はど うであつたろうか。 只今役場の会議室にぼ、歴 代村長十一人の常像が掲げむ れているが、それらの村長の Tに、十数人の三役齢、及び 数十名の村会議員が、村政の 顛寒にあつて、常匿村の発展 村民の幸福のために努力され て釆たのであるが、私は今を れら各人の派別について叉功 罪について、一々挙げること はさけたいのであつて、只豪 斯として我等の視野に映じた 村政のうねりを、記憶に呼戻 してみたいと思うのである。 明治二十一年四月、独逸人 モツセをして草案せしめた市 町村側が、はじめて日本に布 かれたことは人の知る通わで あるが、それは山県内務掴の 切紙であつて、実に立憲主萄 の基礎たなしたも崩であり、 又捌は同時に元老院の反対を 淋し切つて、町村長公選を主 坂し断行したのである。 其の後紆余曲折、▼幾度か制 虞の改変が行われ、町村の合 併も決行ざれて今日に至つて 忠り、現に只今町村合併も何 度日かの合併が冥謂されつ1 あるのであつて、金国l万余 の町村が遠からずそのl二分の 一になろうとしているのであ る○ 斯様な情勢下にわが七会村 のみは、硯在のところ、をの 枠外にあつて、風もない山道 を独り歩いているのである。 だが過去の村政の道は決し て平坦ではなかつた様である 旧水戸藩の一部と、笠間蕃の 一部へ そして小さな村と村と て合併して生れた七会村は、 そこに各々部落的意識や、我 田引水的意志の対立が生れ、 一方に00派、他方に××派 といわれる勢力が出禿て、瓦 に意地と利彗の確執となり、 それが議会に反映し、執行部 に累を及ぼし、幾つかの汚点 を残した事むあつたのである 今も倫村西北の山間に、をの 政争の犠牲となつた奇型児が ぉしげ だま⊥、生れそこねたいたま しい殊骸を空しくさらしてい るのである。 政争もそれが、愛村愛郷の 念より分葦したものであるな もば、むしろ好ましくもあり 民主政治の常道とも云えるが いたづらに意地と、面子と、 利己的のものでぁつては迷惑 を蒙るのは村民のみであろう と思デ。 過去の派閥抗撃によつて、 本村文化の進展に掛からずブ レーキのかけられたことは、 まことに残念であつたが、そ の後、幾多賢明な熱意あるわ れらの代表が選ばれて、過去 の失敗を教訓とし、改むべき を改め、進むべきを進めて、 鋭意郷土建設に努力された結 果、今日村財政も年々充実さ れ、役場も斬らしくなり、村 有林も獲得し、道路も次矛に ょくなり、学校も次々と立派 になり、診療所も出来、.ハス も通り、農業経営の合理化と 帽綴蘭に進みつ1あつて、まも パラチオン、ホリドール、 チップなどⅥ農要は、昭和二 十七年以雅全国的に使用され 食梯の増産に大きな貢献をし ています。.ところが一方では 取扱方を誤つて人や家畜が中 毒事故を起した例も少くあり ません。特に次の点に十分注 意して家畜の中毒事故を防止 しましようO m撒布液の調整及び粉剤液剤 の撒布按無風時を選び、や むを得ない場食は風下等に 畜舎がないか、また付近に 人畜がいないことを確認し てから撒布すること。 ㈲撒布した区域の付近には、 撒布后一週間くらい家畜を 接近させないこと。 鱒撒布したまわりの野茶、育 刈青草等は撒布後少くとも 二週間くらいは家畜に与え ない乙とり ㈲撒布区域及びその付近の水 は絶対家畜にやらないこと 脚薬剤の入わけ、調峯等に使 用㌦た革具は、.洗つた後で なく旧套を睨皮した新奥村が 生れようとしていること枚拘 に放びに堪えないこよである こ1で老いさせられること は、乱れるところに向上なく 、発展は平和の中にある。,と 云うことである。従つて常に 脳裏に忘れてならないことは 、天の障は地の理にしかず、 地の理は人の和にしかザと云 うことであろうと思う。 吋村制施行以来の歴史は、 公法人としての町村の意志を 代表する機関即ち町村会が、 その執行機甜である町村長よ り優位の地位にあつた時代も あり、反対に町村長側に所謂 原案執行権を強力忙与えて、 議員の発案権を認めなかつた 時代もあり、叉議員の被選挙 権が、国税納付を要件とした 時代や、町村税の納付額によ つて二等親に区分した時代、 \ 農薬による 故防止 も史た危険なものですから 家畜の飼料給水用具には用 いないこと。 ㈲薬剤の保管や空びん等の始 末は、腋重にして家畜がな めることのないようにする 印章剤の撒布や調製に従壷し た者が家畜の飼養管理を行 う場合は、薬剤の付着した 被服はとり替え、手足をよ く石けんで洗つた後に行う こと。 なを、家畜の中寿病状は探食 あるいは薬剤付着后二、三時 間から一日以内に発病するも のが多く、よだれを流して呼 吸が困難となり、限が充血し て食欲が減退したり、腰マ㌣ 水柱性の下痢、けいれん、血 尿、血便、囁い発汗、隙痛な どの病状を呈し、しかも急性 にくる場合が多いので、病状 を発見したら直ちに獣医の来 診を求めることです。 llll その任期を六年制とした時代 、町村長を議会の推薦とした 時代など、制度は幾度かの変 遷改正を経て只今の適正制度 に到達した訳で計るが、その 変遊改正の都度、町村長対面 村議会の両者間に、虚片笑貞 の政治劇が行われ、叉、それ ら町村長及び町村議員改選々 挙の庶毎に、種々の事件をか もしたことも事実であつて、 過去のわが七会柑に於ても、 御多聞にもれなかつたことは 周知の通りで 然しそれもすべては、時代 のしからしめたこと1して敢 てその巽は問わず、竹島灯要 れたその功罪が、今日撥乱反 正の困礎となつたことは、む しろ伯倖であつたと思うので ある。 今月の納税 固定資産税牙2期です 納期七月≡十一日限り 一一-■‾、 - - __ _

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