広報ななかい 第28号 1955(昭和30)年 6月
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(2) 第二十八号 昭和三十年六月十日 最近、町村合併が全国どこ の町村でもさかんに論議され ています。国会では、合併す る町村を国や郎潰府煩が援助 するため「町村合併促痘痙」を 制定し、政府セは、これに應 じて、全国的一方の町村な今 後≡年間に三分のーの三千余 り忙減少する目標たたて1、 町村合併な推進することを閣 議で決めました。 そして都道肘解でもあけて 町村合併の必要放ことを強調 し、金国民豆呼びかけていま す。 しかしながら、町村合併は いうまでもなく、町制が自ら 考えて行うペきこよで、国や 解か一方的に決めセゎ、囁制 したりすペきではなく、費 た、できもしません。そして 町村には「自分たちの町村げ 今のままでもどう忙かやつて いけるのだから、何も合併し なくてもよいだろうと、考え られるガ軋あるかも知れませ ん。 「それではなぜ町村合併が必 といわれているでしようか。 その理由の“つ 町村の仕事が時代と1も忙 ふえてきたこと1ことに戦捲 いろく瓦制度の改革ヂ多く の仕事が急忙ふえたので今ま での町村規模や力ではまかな いきれなくなつてきたことで す。」 現在の大きさの町村では、 私仁ちの日常舘魯忙つながり の溌い仕蓼か充分にやつてい くためには、税金や寄附金を うんとふやさない限りは、ま た、ふやそうとしてもそれ虹 は限わがあゃ、どう忙も仕方 がないほど忙なつてきたの乎 ご一〓F三〓≡ニ≡≡〓一二三ぎこぎ〓一〓≡≡ニー〓 冒N邑HHHmH町一〓妻lミニ〓〓=コ一三妻き〓〓ニー≡lき主〓 町村愈餅常識 ヽ SN山根Nm討NNH州肌ぶ黒㌫…点MNN※N罠 す。以前は町や村の役場では 親房屈ヰ死亡屈を受け付有た り、印鑑証明なしたゎ、小串 校の修理した牒すればよかっ たのです。・ところが、それほ 今の町村ができた五、六十年 前の話で、′現在は全く薔情が 変つています。 小串校だけでなく申畢校を 簸てなければならす、消防用 具も昔ながらの古いものでは 役に立たず、ガソリンポンプ や消防自動革も鼠わねばなら ず、曹は遺も自転宰や荷車が 通ればよかつた、今では白 勤革が通れないようでは役忙 立たす、また、いつまでもす ぐ流れるような大柿ではすま しておけザ、どうしてもコン クリートの永久橋にする-一と ・竺萄えなければなりません。 小学校や中学校忙してもー清 りの特別数年も啓備し、梗水 などの教材もととのえ、ピア ノや映写機もそたえて、部会 の子供に負けないような教育 をしてやりたいし、B、H、 Uを村中の家広重き、病気の もとになるハエ、カ、ノミ、 ネズミたどのいない村にした いし、そのほか保育簡、公理 館、診鳴施設、などお互い村 民の生満把必要なやりたい仕 事、やらなければ放らない仕 事は、いくらもあゎます。と とろが、現在の町村の力では 役場の役職員に給料を払うと あとは小、.中学校虹ぎゎぎり 必要な費用だけで㌣もうせ い一ばいで、それ以外把は、 とても辛が囲わそうもたい状 況です。しかしながら、二町 村合併してカを合わせると、 何とか遺絡も格好のつくJぅ 忙直すこともでき、五町村が 一 一つ忙なると、中学校の設備 もととのえ、滑防自動車を買 ったゎできます。それは山人 で軋持ち上けられ急い雷…い石 でも、二人で力を合わせると 何とか持ち上げられ、露人か かれば栗に温べるのと同じ理 層です。 その理由の二 交約渦信機関が軍達し私た ちの日常錬活の〔ながかや所 動の範田が拡がつて、五、六 十年前にできた今の町村で妊 狭退きるよう紅なつたという ことです。 私たちが住んでいる町村の ほとんど妊、明治二十年頃当 時の六、七ケ村合併して机来 にものです。それは日本が長 い封建時代の眠りからさめて 明滑維新な経、世界の発進文 新しい行政針皆心土台として 明国に追いついていくために 両町村の制度を揮立する必要 があり、金矧的に大合併履行 つ.たのです絹枝場や町村会の 純絹女ととのえ、小学校を経 営していくため忙は、この大 合併が必要だつたのですが、 当時の町村の仕事をするに 妊、はどよい大きさだつたの です。しかし常時ほ道路も悪 く、バスはもちろん自転革さ 戊もなかつた時代ですから、 どこへいくにも歩く外なかっ たのです。電話があつたわけ でなく、ラヂオがあるわけで 少ないであろう、県の昨年大 豆反故平均六斗であり、水村 の大豆の反収畳もほゞ同様な 収穫量ではあるまいか。果し 患いヽH 主語作物のうち で大豆位反雷収最 の低い作物妊備づ 培につ小て 巣繋改良普及員 鈴木芳伊 てこの平均六斗の低い牧畳に 筆者は凝間があるのである。 それは大豆栽培両からみつめ て見れば恐らくは栽培上に樺 忙は嬰因的欠陥が存在してあ るのではなかろうか、或は備 祖上わ受入旧態の大豆つくり 同生活の冥際忙ふさわしい仕 事なしていくことを考えるの は、し一ビく当や前のことです (以下次号) なく、新聞もい卓喋らせ、郵 便でも今日とは全く違つてい ました。菅の山 忙あたろか見当がつき鼓せ ん。 また、当時は、阿分の村で 作ったものを食べ、百分の村 にあろ店で物新選い持分の.村 だけで韓活をしている人が大 部分で、よその村へ掛かけた りすることは空れにしかなか ったのです。 それが現在で妊、父は村で 付くか、長男は村】つ離れた 町の工場に自転軍でかょい、 娘妊東隣りの乙町ヘバスで質 物忙いき、二男は西隣りの丙 村に軋る組合中学校に通学し ているというやうなことは普 通です。こうして私牢ちの平 生の生汚の範囲が、六十年前 にくらぺると非常虹広くなつ ているの把、昔ながらの町村 の穀忙閉じこもるととは不合 理な詣で、また、何かにつけ て不便が多いのです。たとえ ば、通学する道路が悪いので 良くしてもらいたいと思つて も、隣りの町と一路でなけれ ば、百分の村だけでほ思う上 て け う ー でンに いかないことにもなるわ 、これらの町村が合併し つの町として、住民の共 では当然反当六〜七斗位の収 量が積の山、それでとれない と云う掛声はl般把高い。而 して大豆は冥際にとれない作 物℡あわませうか、本村小膠 の阿久津力王氏は反当二石≡ 斗位の牧最を毎年納めておる のである。従って大鹿はとれ る作物なのである、トれない と云うのはとろうとする気持 がないのか或はとろうと肇え 七冥礪してもとれないのか、 先に種々な手段を寮してとれ なくて鋳らめてしまつたのか 其の他原閑はあ巾ませう。い づれ忙してもとれないと云う ことは栽増技術に大きい問題 があるものとみてよかろう、 絶って本年も大豆の作付を目 の前に控えておゎ何かと計画 に専念さなれて潜る じます。それで本年作付する 大豆増産の参考に供して頂く 倦めに申述べ現在汀濃宏の大 豆作のとれない聾園を分析し 尿にそれ考研究し改啓して行 く為めに申上け少なくとも反 当収量嘉一石五斗以上の放置 をあけたいものである。 Lとれない欠陥を指摘して見 るLリ ー、大富の前作=小蓼或は 晩生種穿琴の作付が無計 画であり大豆と前作の組 合せがとれたい 二、品種の選定=大豆の晶 梗の特性が知られてない 無計画な品撞の選び方な している ≡、播種期1-漁期播種がな されてない一段にぁそま きである 由、濁肥量=適量施肥が虻 されてない石衣アンモエ ア等も大半施してない 五、睦巾株間=大豆把通す る畦巾株問が無計画であ わ一段に曙相場る結果は 過繁茂どな巾完傘男爽数 が減る 六、士寄培土=蓼刈取彼の 管瑚が摘切に托して政一 放任的で特に十寄培土等 殆んど冥硝してない、と 、 こらが大豆栽培上に於け る改善すべき嬰点ではな かろうか。 2.大l且増収栽輔計画 l、優良品桓=シンメジロ 盈林三骨、新秋、碧手 ヤギ、啓が本村に最も潤 する有望品種と思われる 大豆は一般に早生種よゎ 中錆和々中晩生樟が牧竜 が高い、特虹早年柾のぁ そまきは生育期開府短い ので草丈分枝英数とも極 少ない頭軍に中上けた四 つの品種は柑々晩年析で 収穫期仕いづれも九月一▲一 十日前簸であわ多取高痙 である。 二、播稜斯=大豆妊括積期 がおくれると粒の肥大牧 草に大きく善が坐する大 建前作の場合は五月l一十 日な中心とし小夢前作は 五月二十五日〜≡十日い づれも的作蓼の生育状況 を見て播穫する以上表準 を怨考とし頂き診い。 三、祐肥畳=大豆の表準橋 肥畳は次の漁り基肥堆肥 七〇〜八〇〆硫安l、.瓦 〆〜〓〆過石五〆〜六〆 塩加二〜≡〆石衣】○↓ 二q〆以上が大豆表準碓 肥で性感るが土質に上り 異なるので増減はして頂 ● き匿い○ 四、瞳巾株間=大豆の枝美 は一横に横に繁茂し易く 畦が狭いと英が貰なわ日 周が不足したわ通風が悪 く菓の同化生成が阻零さ れ清光数が頚く従って減 収を招てものであるから 大豆は最低二尺以上の慌 巾必磐で株間鱒翼準に播 韓ができれば七〜八寸位 は総体的に必要なのであ る(熟そまきの場合は三 〜四寸か良い) 五、初期管鱒=大豆は煙草 と同じ棟に㌫よわ不定棋 が発生する不定根の寄生 が牧畳に最も影響される と」京う発表もきれており 期間、七月末日まで 本年の裏作菜橿も天候順調で あり、なを栽増者扇技術の向 上と忙よつて、良好な成績を おさめて居h=ますことば誠に 貰ばしいことですり愈々返椚 期もせよつて参りました。 特配患うけた方々はお忘れな 、ぐ納付して下さい。 昭和≡十年庶も昨年に準じて 実施いたしょすからこの秋は もつと菜種の寡作計作りませ う○ これから 赤痢の流行期 六月十四日から 赤痢予防週間 梅雨期と共に種々な伝染病 が発生する時期とな一ゎ中でも 赤痢の流行は年竺増加の傾向 にあゎ、今年忙入つて本村に 於て妊すでに】名の患者み則 すに至っております。 茨城県にぁける窮痢の礪行 は昭和十五年が二、〓ハ二人 昭和二十一年が主、〇七二人 昭和二十七年把墜l「一空一七 ます。 水戸農試等の発意から和期 土寄輔土ほ最も不定根が発生 し大豆の生育が極めて艮。帯 川回の土寄せは蓼刈取后十日 目忙第一固を行い続いて十日 目にぬきに二回を冥施し七月 十日頃までに終らせる。いづ れも開花翻虹冥施甘る二とで ある、其の他大軍栽培柁術の 木簡な点については筏の機会 を利用して発表させて頂きま す。(経) 喜一rl\‘1.’.′ヽ′ヽき1.f†ヽ′ヽ・′ 、 暴催畢勘で肥料 の特配を受けて いる方々に 返還反当基準は茶棲一斗.(疋 昧三〆二〇〇匁) 返還場所、生産組合長が】括 とりまとめる二と。 患者の大部分牡牛得六ケ戸 から四、東才凌での幼児忙多 く今まで蘭死亡率も相当布か ったのですが†今ではクロロ マイセチソなどの良明、が?’ 死亡率は急に減ってい蒼古。 しかもこの病気匪、手首の時 間が早ければほとんと死亡す ることはあり愛せんが統計に 依る1間柄率は男ナより女子 の方が多くなつています。 よた、赤痢の流行ほ全国的 には八月が最高になつてれま すが本県では一ケ月遅く九月 忙なつていよす。 一息宥ザ殖える時期は痘年六 月から上昇しはじめて十月ビ ろまで続くのが普通の状態で す、この赤桝という病気は犬 や猫忙は惜染し放いし、曹た ねずみにもなん椚症状も現わ きないので、こうし夜勤物が 菌を週んだけ、よた人間の中 妃も健康傑濁音といつて発く 症状の現われないセ、赤痢閏 を排出する恐ろしい人がある ので、こうした人たち財早く 見付け出して、なおさないと ■あ柄気はいつ空でたつても へらないのです。また窮樹に は簡便性がほとんどないため 一度かかつてもまたかかる† とがあわ予防注射もないのや どうしてもみんたのカで防ぐ 以外にないのですから次のこ とだけ妊ぜひ実行しょうでは あゎませんか。 】、外食するときや食品計習 うときは清潔な店か選ぶこ と〇 二、食前や外出か仁帰った曙 は必す石けんで年針洗うと と。 ニ一、下水キ掃除t、便所やチ リ箱にふたをしてハ立の苓 生1侵入を防ぐとと。 (衛生係) 人と最高を戻しておわ生す。 蹄痢という伝染柄はずいぶ ん古くからあつた紗ですが、 志費潔先生が五十八年前に赤 痢餞を賂見して以来、いろい ろな精確忙分けられ現在-は 二十八掃幣もあり真す。
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