広報かつら No.399 2003(平成15)年 8月
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この部会では、文書資料の調査・ 収集が中心となりました。江戸時代 の資科はあまり残っていないだろう と予想していましたが、粟、高根、 上阿野沢から膨大な量の古文書資料 が掟僕されました。 この中で、最も参考になるのは 「御用留」 で、天明年間から幕末の慶 応年間まで、ほとんど全年分残され ていました。御用留とは、お上の御 用を村庄屋が書き留めたものなので そのような呼び名がついたのですが、 それには、江戸藩邸でのできごとと、 それに対する村人への注意事項、年 貢納入について、検見の準備や留意 事項、流行病への対策、村の神事の 規定、江堰や溜池普請の人足割り当 て、日常生活の注意など、あらゆる ことが記録されています。貴重な資 料ですが、この御用留を資料化する のには、長い年月がかかりそうです。 一方、村から藩へ浸出した嘆願書 も数十点ありました。これは、おも に凶作の年に、金銭や食料の貸与を 願い出たものですが、そのほか、斉 昭が処罰されたときに、各村の代表 者が連名で出した減刑嘆願書の下書 今回は、前回に引き続き、調査・収 集活動の中から、おもだったことがら をお知らせします。 三 近世部会 濠 きが、多数残されていました。 そのほか、錫高野・孫板・高根・ 赤沢地区から人別帳が、上坪・高根 阿波山・上阿野沢地区から天保検地 帳や村絵図などが提僕されました。 特に、高根地区には、県内でも珍し いといわれている寛永検地帳があり ました。 徳宿太重郎 (太重) 日記の存在に ついては、皆様すでにご承知のこと と思いますが、今回は、その内容全 体を調査しました。この日記には、 当時の村のようすが詳細に記録され ています。そのうち、天保十五年の 日記のごくl部を箇条書きにして栢 介します。 一・一鎮守社参、先祖の廟を拝す 九 阿弥陀寺龍瑞和尚召捕り 一一今日阿波山村となる。上下 穴沢、阿野沢上下と改まる 一五 阿波山神社十右足し高、都 合十五石御除きとなる。北 宿・舘の下までは高根村鹿 島明神の氏子のところ、こ の度改まる 二八 供養塔仏像等一ケ所へ集め、 破壊仏像と立て札すべき旨 御達しあり、館山下赤沢江 の上に集め申し侯 三 三 岩船神社那珂湊へ磯出、七 ケ村 (岩船・孫根・錫高 野・高久・北方・石塚・春 園) より三五〇人余り、五 調 の 部 会 で は、 まず な 役場 内 の 資 の資 で 料 料 を 勘剥 日帰輿 当日祭り、屋台踊り狂言、 四ケ村 (粟・阿波山・下阿 野沢・上阿野沢) より一つ 宛 (この年から四ケ村祭り が始まる) 一阿弥陀寺本尊、阿弥陀如来 その他すべて瓜連常福寺ヘ 七夕中止 長崎へインキリス船百余捜、 船の長さ百聞余、横二五・ 六間、黒田侯より三千騎余 以下略 繰り出し侯由 ′し 草書予防計画や合併当時の農山村振 興協議会の資科など、それぞれの地 域の特徴的な資料がありました。 つぎに個人の家の資科を調査しま した。明治末から昭和初期にかけて の養蚕に関する資料が上坪、上阿野 沢から多数見つかりました。また、 煙草製造の資料など生産生活に直結 する資科がありました。 高根の平賀修さんの家に、ていね いに和紙に包まれていた「管」が保 存されていました。包み紙の文字か ら明治六年に平賀又四郎が断髪した ものであることがわかりました。明 治四年に断髪令が出されますが、抵 抗が強く、茨城県でも、旧水戸藩士 民の反乱があったほどでした。政府 は、戸長・副戸長に村民を説諭する よう通達しました。平賀又四郎は副 戸長だったので、率先して断髪した のでしょう。でも、その 「瞥」を処 分できない心境だったのでしょう。 そのほかたくさんの方々から資料 の提供をいただきましたが、ここに は帝介しきれないので、あとの機会 に、資料提供者一覧という形で紹介 したいと思います。 これらの資料を参考に、現在原稿 作成中です。これからも、資料の提 供をお願いすることがありますので その節はよろしくお願いします。 9 ……広報かつら 8月号‥‥‥
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