広報かつら No.394 2003(平成15)年 3月
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去る2月6日(木)に、「有線放 送五年を振り返って」と題しまし て有線放送企画委員と元有放アナ ウンサーの皆さんによる座談会を 開きました。 矢次 桂村の有線放送電話も昭和43年に 開通し35年を迎えました。この35年 間、多くの村民に愛用され、時には いろいろ批判も受けあるいはご協力 もいただきながら、今日を迎えその 間、担当課の職員はじめ、アナウン サーの大勢の皆さん、それと企画委 員・協力員さん方の努力は大変なも のでした。しかしながら長い歴史の ある有線放送も設備の老朽化、加入 者の減少等により、最近新しい設備 に切り替えようというようなことが 決まりました。有線放送がなくなる のは一抹の寂しさを感じますがこの 35年間、アナウンサーの皆さんの努 力、企画委員さん方の努力を今日の この場で思い出しながら、35年間を 振り返ってみたいと思います。まず、 企画委員副委員長の徳宿さん。 徳宿 私が企画委員になったのは、在職 中、桂中学校勤務の頃、あの頃は現 職の教員が企画委員になっていた時 代もありました。それから、途中転 任して10年ぐらい空自がありますが 退職後柑年間企画委員として勤めて きました。 矢次 それでは、アナウンサーの経験者に お話していただきます。初代アナウン サーの高須さんいかがですか。 高須 アナウンサーになった頃。私は詑 りがひどくアナウンスの研修に行っ て先生から大変お叱りを受けまし た。そのことが今日まで東に残って おり大変勉強したことを覚えていま す。そういう耽りのひどい放送を聞 ) いてもらって恥ずかしくなってし まいますね。一つ一つの番組につ いては、皆さんからお叱りをいた だきながら、でも、お叱りをいた だくということは聞いているんだ なあと、ちょっと安心もしたりし ました。 矢次 次に担当となったのは森さん、昭 和45年頃だったと思うんですが…。 森 そうですね。スタートしてから 2年後に有線放送に配属されたん ですが、私は自分が事務で採用さ れたと思っていたものですから、 立派にやっている先輩みたいに毎 日の放送など出来るのかしら、人 前で話をしたり取材の経験もない しと、とても心配でした。とにか く自分の声を聞くのが恐ろしかっ たというのが、最初ですね。思い 出に残る番組は、「みんなの広場」 のような取材が多い番組で、たく さんのお宅にお邪魔してお話をす る機会がありましたので自分自身 を成長させて頂きました。 矢次 次にアナウンサーになられた印さ んは船橋さんと一緒でしたね。 \-ノ 船橋さんと一緒でした。研修には、 加藤木 (美) さんと長野の方に行っ てきました。 船橋 私の思い出に残る番組は大桂大橋 が開通したときに取材した、「大桂 大橋竣工祝賀花火大会」の模様です。 これは加藤木(美) アナウンサーと いっしょに取材してまとめたものな んですが、県のコンクールで最優秀 賞を頂きました。また、それ以上に 思い出に残ることは、私が、有放ア ナになった昭和60年、科学万博があ りまして、万博会場で行われた桂村 の日に矢次委員長さんと森アナウン サーが司会をなさったんですがこれ が印象的で、こんな風にアナウンス が出来たらいいなというのが大きな 目標となってアナをしていた10年を 支えてくれたと思っています。 2 晋……広報かつら 3月号……

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