広報かつら No.333 1998(平成10)年 2月
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を求め、ついで文化元年(一 入〇四) にレザノフが長崎に 来て通商を求めたが、幕府は 鎖国の方針を守ってこれを拒 絶した。ロシアはこれを怒り わが北辺を侵すようになっ た。この頃、イギリスもわが 国に迫ってきた。このように 北からロシア・南からイギリ スが迫り、わが国を騒がせた ので、国内でもこれを打ち払 おうとする擾夷論がさかんに なった。そこで幕府は文政八 年二八二五=止幾子二十歳) に中国・オランダ船以外の外 国船を見つけしだい打ち払う ようにとの命令を発した。し かし、アヘン戦争によって、 アジア第一の大国である中国 が破れたという事実は、国民 に大きな驚ぎを与えた。幕府 も現在のような貧弱な武力 で、外国船を打ち払うことの 危険をさとり、老中水野忠邦 は、打ち払い令を緩めるとと もに、兵学者に西洋の砲術を 習わせ、武器の製造を行わせ て国防に気を配った。 弘化元年(一人四囲=止幾 子四十歳) には、オランダ国 王は手紙を幕府に送り、世界 の情勢を説いた。これに対し て幕府は鎖国の方針を変える ことはできないと答えた。し かし、オランダ国王の忠告は 事実となって現われ、アメリ カは武力をもってわが国に開 国を迫ってきたのである。嘉 永六年(一八五二=止幾子四 人歳) アメリカの使節ペリー は日本の開国を求める大統領 の国書をたずさえ、近代的な 武器を備えた四隻の軍艦を率 いて浦賀に入港した。幕府は ペリーの強い要求におそれて 国書を受けとり、明年回答す ることを約してかれを帰し た。翌安改元年(一人五四= 止幾子四九歳)、ペリーは回 答を求めて、再び浦賀に入港 したので、幕府はついに神奈 川で条約を結んだ。これを日 米和親条約または神奈川条約 という。ついでイギリス・ロ シア・フランス・オランダと も同じような条約を結んだ。 こうして二〇〇年にわたった 鎖国政策は破れ、わが国も世 界の国々と交際する第一歩を 踏み出した。和親条約により アメリカの稔領事ハリスは、 下田に来て領事館を開き、老 ほったまさよし 中堀田正睦に世界の情勢を説 いて通商条約を結ぶことに努 力した。 この頃、幕府の力は弱くな り、反対に諸藩の勢力が強く なった。ことに通商条約とい ′し、 うような大きな外交問題は、 幕府の独力で処理することが できなかった。そこで、朝廷 や諸大名の意見を開いたが、 国内では朝廷を尊んで外国人 を打ち払おうとする尊王壊夷 論がさかんであったため、な ちょつきょ かなか条約の勅許が得られな かった。この外交難に加えて、 将軍の跡継ぎの問題が起こ り、諸大名は二派に分かれて 争ったため、時局はいっそう むずかしくなった。 この将軍継嗣問題とは、病 弱で子がなかった十三代将軍 家定の跡継ぎをめぐり、幼少 の折永戸弘道館に学び、英明 の聞こえ高かった斉昭の第七 ごきんきょう 子で、のち御三卿の一橋家を 継いでいた慶喜を推す尊壌改 革派の家臣をはじめ、領内の 郷士や神官らのうちでも、一 橋派として活動するものが少 なくなかった。慶喜擁立を旗 印とした一橋派は、先頭に外 様大名を中核とする越前藩主 松平慶永・薩摩藩主島津斉 彬・土佐藩主山内豊信・宇和 島藩主伊達宗城等であり、一 方、家定将軍の従兄弟で少年 よしとみ の紀州藩主徳川慶福(のちの 十四代将軍毅を推す譜代 大名が連盟しての慶福支持 (南紀)派は、幕閣の独裁権 を護る立場をと軋離弼(江戸 城中の譜代大名などの詰めて ・ま いた間)諸大名を代表する彦 根寧王井伊離斬らであった。 紀州派は譜代の雄藩彦根藩主 井伊直弼が中心であっ柔か ら、継嗣問題は結局水戸と彦 根が対立する形となって政治 問題となった。その間、いろ いろのデマが乱れ飛び、安政 二年には斉昭が慶喜を幕府に 入れて、政権を専らにするた め、ひそかに慶福の毒殺を図 ったとか、また安政四年にな ると、斉昭に慶喜擁立の陰謀 ありとする嫌疑が、幕府役人 の問にも信じられるようにな った。幕府の方針は紀州派に 有利に進んだ。これと時を同 じくして、幕府と米国籍領事 ハリスとの間に進められてい た日米通商条約の調印につい て、一橋派の水戸藩士民と井 伊直弼らの意見が対立した。 斉昭らは調印に反対し、幕府 ちょつきょ が京都の孝明天皇の勅許(天 皇の許可)を得ようとするの くげ に先だち、京都の公卿らに働 きかけたため、首席老中堀田 正睦(下絵佐倉藩主)が、み ずから安政五年一月京都に上 って、条約勅許の奏請をした にもかかわらず不成功に終わ った。ところが安政五年四月、 ヽ- ( 井伊直弼が、しばらくおかれ なかった幕府最高の職、大老 になった。かくて六月十九日 払暁、歴史的な日米修好通商 条約は調印され、六日後(六 月二十五日)十三歳の慶福を 将軍養子に決めたことを発表 した。 この間、斉昭は子の水戸藩 主慶篤らを伴い、また尾張藩 よしくみ 主慶恕らも不時登城して、直 弼を勅許を待たず調印したこ とに対して、その責任を追及 した。二二歳の慶喜は六月に 登城して「違勅」だと直弼を 詰問し、強く反発した。しか し、この一件では結局、世界 の大勢を説く直弼を動かすこ とはできなかった。 この前後から直弼ら彦根藩 側近の間には、〝水府陰謀″の 語が用いられるようになっ た。大老はその禍根を断とう として、同年七月、〝不時登 城〞を理由に斉昭を謹慎、尾 張藩主徳川慶恕と越前藩主・ 桧平慶永を隠居、水戸藩主・ 慶篤と慶喜を登城停止処分に した。それ以降、国元水戸で (無実の罪をすすぎきよめる) 運動が展開されることになっ た。将軍継嗣と条約調印に敗 (12)

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