広報かつら No.333 1998(平成10)年 2月
11/14
真実一途に生きた黒澤止幾子 -高潔にして非凡な人生1 加藤 太一郎 人はそれぞれ異なった場所 や環境の中で、その人なりに いろいろな考えをもち、それ なりの立場立場をふまえて生 活している。人間が生きてい るということは、どんな意義 があるのか。よりよく生きる ということは、また、人間ら しく豊かに生きるとは、生命 のある限り何をやっていった らよいのか。どうしたら心が 和む安らぎの境地へと自分を 導くことができるのか等々、 多少の違いはあるにしても、 誰しもが願い、望み、求め、 考え、行いながら日々の生活 を営んでいることは、事実で はないだろうか。それは人間 として、この世に生を享けて、 よりよく生きたい、より確か に生きようという本来の願望 をもっているからなのであろ 〜つ0 黒揮止幾子も一人の人間と して、やはり共通の理念をも って、生きていったであろう ことは想像に難くない。それ 徳川慶喜と黒澤止幾子 にしても止幾子の生きた時代 は、現代社会とは想像もつか ぬほどの大きな差異があっ た。今を遡ること一五〇年前、 武士社会という特異な時代で あり、それに加えて幕末期か ら明治維新期への大変革の過 渡期であったのである。混迷 と激動の社会の中で、止幾子 はどのように生きたのか、こ こに生涯の軌跡を辿りなが ら、その生きざまにスポット をあてて、一人の人間として、 いや一人の女性としての生き 方を探ってみたい。 止幾子は由緒ある中臣藤原 家の流れをくむ家系で、片田 舎の辺境の地、錫高野の修験 の家に生まれ、二歳にして父 と別れ、一人娘として母に養 育され、七歳の頃からは祖父 より和漢の書を学び、よくそ の道に努め励み、十六歳の時 になって心の頼みにとしてい たこの祖父とも死別した。十 九歳になった春、小島の鴨志 田家に嫁し、以来九か年、放 蕩三昧の夫に仕え、農事に精 励しながら、二児の母として 苦労の多い日々を過ごした。 浮き世の定めとはいっても、 家計の貧しさ、加えて夫の放 蕩は、いわゆる貧乏の先がけ となり、その日その日の生活 さえ、容易ならざる悲境に明 廷暮れたのであった。こうした 家庭の事情は、止幾子の双肩に 重くのしかかったのである。 それにもかかわらず、ひた すら貞節を守り、妻として、 母として誠に痛ましくも貫き 生活を続けたのであった。 やがて、止幾子二十六歳の 時、若くして夫と死別、ゆえ あって二人の子を連れて錫高 野の実家に戻った。それから というものは、母を扶け一家 の柱石として、家族を支えて いかなければならない立場と なった。そのため当時、社会 的にも最下位にあった商人、 それも婦人として苦労の多い 行商を止幾子は始めたのであ る。未知の世界での仕事、見 慣れない土地、初めて出会う 人びと、その上、交通の便も 至極悪かった旅路、次から次 へと目前に立ちふさがる障壁 につき当たったのである。 しかし、我が身の処すべき 道を弁え、それらの難儀をも 克服しっつ、一途に歩み続け た。 そうした苦難の中にありな がら、親を思うの情一入あつ く、どこへ行っても、親の身 の上行末を守らせ給うように と心中に祈念し、決して心か ら離れることはなかった。親 への慕情と孝養心はいつも横 溢していた。これらのことは、 遠い草津への行商の旋、塩子 での寺子屋の師匠のとき、及 び囚われの身となった時の手 記、母の墓に詣でたときの詠 草などからよく窺い知ること ができる。 一方、幼き頃から志した学 問の道は、終生にわたって没 頭し、忠実に行い続けたので ある。その間、学ぶことを通 して生きる知恵と力を自らの ものとし、恵まれない境遇や 事情を乗り越え、人生の遠い 道程を悩み苦しみを通して、 一歩一歩と新しい道を開拓し つつ、強く正しく生き抜いて いったのである。また、止蔑 子は行商・農事∴字間の道に 精進しながらも、故郷の草 木・大自然に心を向け、その 中に沈潜し、こよなく自然を 愛し、親しみ没入し、その 折々に自分の感懐を吐露して いったのである。それらの詠 草の中から止幾子の自然と共 に生きる心のゆとりと清純に して豊かな心を垣間みること ができる。 なお、生涯の中で特筆すべ きことは、幕末という国事多 難な世にあって、止幾子はど う生きたかということであ る。文化・文政・天保・弘 化・嘉永・安政・万延年間に かけての国内外の情勢は、大 きな動揺期を迎えたのであっ た。当時、日本ほ鎖国の夢を 長くむさぼってきたが、それ が許されないような情勢へと 動きはじめたのである。それ は世界の列強がアジアへの進 出をはじめ、わが国へも開港 を迫ってきたことである。即 ち、わが国が国を閉ざして外 国と交際をさけている間に、 欧米諸国では政治・経済に大 きな変化が起こり、科学技術 はめざましい発達をとげた。 十人世紀末から十九世紀初め にかけて、イギリスに産業革 命が起こり、工場で機械によ る大量生産が行われるように なった。この産業革命となら んで、欧米各国では民主政治 が発達し、近代国家の形態を 整え、市場や植民地を獲得す るために、アジアの諸地域に 進出し始めた。 日本の新しい対外関係は、 十八世紀末まずロシアがカム チャッカ半島から南下して千 島や蝦夷地 (北海道) で接触 するようになった。寛政四年 (一七五二) ロシアの使節ラ ックスマンは根室に来て通商 (11)
元のページ