広報かつら No.330 1997(平成9)年 11月
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身書(道徳書) のようなもの が残されてあるが、その内容 をみると、豊かな生活体験か ら湊み出た、止幾子の人生観、 教育観といったものを、垣間 みることができるのである。 次に、その内容をあげてみ る。 「村の諸人、平生心に励む べきことあり。それ一切の善 と悪とは、誰も心の内に知る ものなれば、常々身を省みて 善に進み、悪をのぞき、よろ おごり ず慈悲正徳を専らとして、奪 をやめ、第一、なりわいに情 が入り、一すじに励み、勤む る時は、天道にかない、神仏 の加護あって、家富み、村栄 えんこと疑いなし。この心に そむき、無理非道を以て世を 渡り、若し免がるるも、とも かくも身を立つる者有りとい えども、往々天の罰を蒙る故 目の前に見えたり。 そもそも天と地は、明らか なる鏡と思うべし。二つの鏡 を立て、その間に居る我なれ ば、心に思うことの善も悪も 皆、此の鏡にうつる也。 そのうつる証拠を、いはぼ いか程つつみかくす事も、つ いにあらわるるにて、知るべ し。この理を、真実に知りて たとえ見ず共、開かずとも、 我、胸の中を慎しみて天の鏡 を恐るべし。且、人を苦しめ この身をほろぼすこと多くは 邪なる欲より起こる。たとえ 如何程の金銀を見ても、是は とるべき理か、とるまじき理 かと心に考え、義理にあたら ずば、必ずとるべからず、す べてこの心に考え合わせて知 るべし。」というものである。 いそ いかにも学びの道に勤しん できた止蔑子の一断面が表出 されており、その深遠な考え うかが を窺い知ることができるので ある。 また、止幾子が上京後、皮 綿屋伊兵衛方での一夜の宿を とったときのことや幕吏に掃 えられ、取り調べに対し、信 念を貫き通した顛末を、帰郷 後に記録した手記である 「囚 われの記」をみても、学問の 深さが現われているのである。 その中から二、三抜粋して みると (原文を現代文に改め たもの) はじめに「……明ければ四 月一日、風が激しくて外出も 出来ないので、仕方なく真の 座敷でお話などしたり、大塩 平八恥(知行合一を説く陽明 学者で、大阪町奉行のもと与 りさ亡 主=さ人 力であったが、天保の飢饉の とき、自分の書物などを売っ て困った人々にほどこしをし た。また、町奉行所には非常 米を出すよう申し出たが、聞 き入れられなかったので、貧 しい人々を救うために乱を起 こした。しかし、密告者があ り、準備不足のまま立ちあが ったので、すぐしずめられた。 大塩平八郎がもと幕府の役人 であったため、その影響力は 大きく、その後、各地で大塩 門弟と称する人々の一揆が起 こり、天保の改革の原因とな った。平八郎の乱は、天保八 年(一人三七) に起った。) の本をくり返し読んで涙を流 したぃし卦しな…(以下略)」 次に「……オオその方、婦 人でありながら天下国家の為 などとは聞いたこともない大 それたことではないか。ハイ 恐れ多くはございますが、我 が国では例がないと仰せられ ますが、唐(中国) の国では 斉の宣王の時、鐘離・春斉・ 無塩君などと云うお人は、国 の一大事の時に身を以って陛 下に言上し、奉った例もあり 殊にわが国家の一大事と聞き ましては、これを捨ておくわ けには参りません。易経の学 では (中国では陰陽を原理と する哲学-五経の一書) 天子 は民の父母であり、下民の王 し であると申します。又、次の 様な詰もあります。広大なこ の国土は、これ凡て王の土地 であり、この広い地上に住む 億万の人々は、これすべて王 の臣下であると、私は下魔の 身ではありますが、仁義の道 もわきまえ、徳の心も備えて いるつもりですから、天下の 大事と聞きましては捨ておく ことなく参上いたした次第で す。もし間違っていたと致し ますならば、如何様なお答め もいといません。…(以下 略)」 そのほかに、「……西奉行小 笠原長門守殿が書付を開いて 水戸殿領分の住民、錫高野の 生まれ、俳讃歌道文通手跡指 南、黒澤李恭こと、ときと大 声で読み上げたのでハッと答 えて平伏すると、又々顔を上 げよとの仰せ、お前は忠義の 為、上京したのだから心配す るな、然しお前がすい星の現 われたことを心配するのは、 どんな理由かと問われたので 星の色一つ一つ申し上げ、こ の度の色は白かったので、是 則ち乱世のお告げであろうと 判じ、心配したのですと申し 上げると、暫くして長門守殿 は、どんな本に書いてあるの か、その方詳しくよく知って おるなと感心して、その日は それで終わり揚り屋へ戻りま した。……(以下略)」等が 記されている。 以上のことからも止幾子の 達識の一端を想察できるので ある。 苦労の多かった長い人生、 常に前に向かって進み、そし て歌の道、古今の学問を修め よき友、よき師との出会い、 また行商の旅での多くの人々 との触れ合い、自然との接触 世情の動きに心を傾注し、そ れら絶てが止幾子自身を練り 磨き、人間として生まれきて、 国のため、世の人達のための 大業を成し得て、八十五歳を もって生涯を終えた止幾子の 一生は、まさに知と行が一体 となっての生命のすべてをか けた人生の航路であった。 それは自立する女性の先駆 けだったのである。 幾多の困難を乗り越えなが ら、終始求め、学び、考え、 実践していった、その精神と 行動は、いつまでも不朽の異 彩を放っていくことであろう。 私達は、止幾子の心を心の 友として、常に自らを省みな がら、生きていくことができ たならばと願うこと切なるも のがある。 (11)

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