広報かつら No.330 1997(平成9)年 11月
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当してもらった折、黒澤家が 千命翁の時から、数代にわた って経営してきた寺子屋の師 匠として、地方の子弟の教育 にも従事してもらうことにな った。義父 (助信法印) は、 学問に精通し、ひとかどの見 識もあり、詩歌・俳語・和歌 は申すに及ばず、浄瑠璃まで も作るという文人であった。 漢詩にも才能があり、和漢の 書にも通じ、才気喚発という 人物であった。 止幾子は、助信法印に従っ て和漢の書も修めたのである。 和漢の書とは、「和学」と「漢 学」 の書で、わが国に関する 学問、即ち国学及び中国の学 問一般の中で、主に儒学など の書のことをさすのである。 国学は、江戸時代に儒学や 洋学に対しておこり、日本の 古典(古い書物)を研究して、 日本古来の道を明らかにしよ うとして、元禄時代に僧の契 沖が「万葉集」や「古今集」 の研究をはじめたのが、きっ かけとなり、荷田春満は、古 典や古語の研究をした。 ついで、賀茂真渕・本居宣 長・平田篤胤らに受け継がれ て完成した学問で、後に社会 に大きな影響を与えたのであ る。特に平田篤胤の思想は、 日本の国の優秀性をとき、歴 史の上からみて、日本の政治 は天皇が中心でなければなら ないという、尊皇思想を強く おし出したものであった。 また、漢学としての儒学は、 その最も基本的部分をなす四 書五経の研究をする学問であ る。即ち儒教の基本聖典とい われる「大学」「中庸」「孟子」 の四書や、基本経典である ・、/いさ 「易経」「書経」「詩経」「礼記」 「春秋」 の五書等である。 止幾子は、旺盛な求知心を もって、これらの書について 広く緩い勉学に励んでいった のである。 止幾子が、文学に志して、 初め俳語を学び、狂歌を修め、 更に湊諸にまで手を染めたの であったが、隣村の孫根の出 身で、当時、小石川の水戸藩 邸に仕えていた加藤木岐明文 という人から、国風としての 和歌をすすめられ、それが契 磯となって和歌の道へと転向 していったのである。峻要は 相当に学問もあり、殊に和歌 をよくしたので、この道の先 輩でもあった。峻望の家は、 地方の名門で、父新五郎は庄 屋をつとめ、母利与という人 は、賢婦人であり、慈善家で もあり、また烈女であった。 ′11 こうして止幾子は、加藤木 峻明文を始め、小島春尊・森田 善男や加倉井砂山の高弟で和 漢の学に通じ、殊に和歌をよ くし、書道も堪能であった興 野椀堂らのよき友、よき師を 求め得て、和歌の道を究め、 時にふれ、事に応じて、自分 の感懐を和歌に披度したので ある。特に渾身の力を尽くし、 畢生の心を砕いて綴った献上 の長歌「千はやぶる、神代の むかし、神々の、志つめ玉ひ し、あきつしま、実にも貴ふ とき、日のもとの、きよき光 りは、古しへも、今も千とせ の、末迄も、かはらぬ君が御 代なるを……(以下略)」や 捕われの身となり、江戸へ護 送される十三日間の唐丸駕籠 での旅路の途次、五十三次の 宿場宿場において感じたこと や見たことを、その地名を詠 みこんで作った秀歌「東海道 五十三次の歌」など、その他 数々の作品を残している。 ここで、その五十三次の歌 の中から何首かあげてみる。 ?京都 めくみある けふを名残の泉哀 つゝむにあまる 初のさみだれ (皇域の地に名残りをとゞ めて、今ぞ出立つ護送され る旅、折からの五月雨に感 無量の涙とともに袖をぬら す) ○岡崎 はや駕麓を 飛1ていそく 泉なれば あとに心は おかさきの旦 (早かごを飛して急ぐ旅で あるから、宿場から宿場へ とかえりみるいとまさえな い。あとに心をおくひまも ない。) 。舞坂 駕寵なれ1 長の線路も 奔放を のぼるは つらき 身の身なれば (京都を出発してからもう 二十四の宿場を過ぎる。ず いぶん旅なれたわけではあ るが、流石に五十を過ぎた 老の身には、坂をのぼる時 など身にこたえる。) 。掛川 君か代の ためと尊ひを 調川の きよき洗に 傘そきをやせん (皇国の御ためにと神に誓 いをかけ、自分としては命 がけの大事決行であった。 この掛川の清き流れに身も 心も更に清めよう。) 。平塚 降りつゞく 五十路の膚の ( 五月雨に ぬれ1決も 叫 l ( ひらつかのきと (もう五十近くも宿場を通 って来た。その間、五月雨 は殆ど降りつづいて、着衣 はかわくひまさえない。し かし、この平塚へ来て、よ うやくかわいて来たJ そうした和歌のほか、日記 として「上京日記」や「囚わ れの記」 「私塾時代の寺子屋 の師匠としての日記」 及び 「元治甲子の変における、当 地方の様子を記した日記」 等々があり、いずれも草体の 漢字、万葉仮名を縦横に駆使 して達筆に記述されている。 このように俳譜・狂歌・連 歌・漠詩・和歌等の多彩な文 学と和漠の学問に精進された 止幾子の旺盛な精力と不休の 努力及び衆にすぐれた学識と 卓見は勿論、更には浮世の生 活における苦労は絶えず、止 幾子の身辺につきまとったに もかかわらず、強固な意志と 学問への真蟄な姿勢を堅持し、 挫折することなく、乗り越え ていったことは、唯々、敬服 せざるを得ないものがある。 そのほか、止幾子が私塾の 師匠時代に、寺子たちの教材 として使用したといわれる修
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