広報かつら No.329 1997(平成9)年 10月
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や紅花の栽培をしながら、夜 を日についで農事に励み、そ の余暇を見い出し、今まで持 ち続けた勉学の心は、いつも 絶やすことなく、疲れた体に 鞭打ちながら日毎、学問を怠 らなかったのである。働きな がら学ぶということは、勉学 好きの止幾子にも、それは並 大抵のことではなく、辛く苦 しいことであった。しかし、 止幾子は愚痴もこぼさず、よ く夫に仕え、二児の世話をし ながら、連日、懸命の努力を しっゝ生きていったのである。 夫将時は、放蕩三昧の人で あったが、この世に夫は一人 とよく尽くし、いさめても直 たお らず、やがて夫は病に呉れ死 んでしまった。止幾子は止む を得ず二児を連れて、錫高野 の実家に戻ったのである。二 十七歳の時であった。 その後、止幾子の家は母一 人の働きであったので、収入 も少なく豊かな生活など望め 得なかった。一家の柱石とし て家計をきりもりしていかな ければならない立場に立った 止幾子は、農事に従事する傍 はた つむ ら、綿花を紡ぎ、機を織り、 裁縫や手習い等の教授もし、 一方、櫛やかんざしの行商も して歩かなければならなかっ たのである。近隣の村々は勿 論、見知らぬ遠い地域にまで 足を運び、草鞋に手っ甲、脚 半という旅装で凸凹の悪路、 険峻な山坂を上り下りし、時 には肌を刺すような風雪の中 を、杖を頻りに足の痛みをこ らえ、ひきずりながら、物騒 な夕暮れの道を不安と焦燥に かられながら、旅から旅への 行商を続けていった。 これもわが家のため、母へ の孝養、そして二児のために かんなんしんく と我を忘れ、簸難辛苦しなが ら東へ、西へ、南へ、北へと 唯歩み続けたのであった。 旅篭へ辿りつき、一夜の宿 をとれば、やる場なき程の旅 の疲れに見舞われても、同宿 の旅の人々と終夜語り合い、 ふけ また、読書に耽り、時のたつ のも忘れるのであった。生来 の好奇心をもって、自ら求め 学ぶということは、いずこへ 行っても忘れることはなかった。 二十八歳の頃から文学に志 し、行商の余暇に太田地方で の俳匠として知られた尾花庵 方居の門を叩き、時折、俳語 の指数を受けるに至った。方 居は俗姓を勝村といって、太 田の東仲の角屋敷に住んでい たところから方居と称し、有 名な松尾芭蕉翁の俳風を伝承 して、地方における蕉門の重 鎮であった。 止幾子が入門した時代は定 かではないが、遺稿の中に下 館の俳匠奇哉と俳語連歌を輿 きのえね 行した 「庚子夏興行-俳譜連 かの・′こつし 歌集」や「辛丑秋興行-鯉鱗」 などがあり、それによると天 保十一年・翌十二年のものが 両集であるところから、この 頃が止幾子の句作に関心をも った時代の頂上ではなかった かと言われている。 遺稿の中から止蔑子の作品 を抄録して、その作風の片鱗 を窺ってみる。 旅衣汗につめたき夜雨かな 夜廻りの影哀れなり冬の月 雨の日や炬優に暮るる 旅の宿 道中にとけてうるさし 足袋の紐 板塀を小楯にとりて水仙花 に「一 など、実境、実感が藩み出て いる句であり、止幾子の性格 が想察されるのである。 時は元禄以降、文化文政を 中心として江戸文学の欄熟時 代に軽妙で快活、明るくのん きな気分を最も巧妙に表現す る狂文学と称するものが、起 った。狂歌・狂詩・狂句など の滑稽的作品が行われ、中で も狂歌が最も広く盛んであっ L上〈さん「一ん おおた なんぽ た。有名な蝕萄山人(大田南畝) ヤどやめLもり を筆頭に、宿屋飯盛らが出た。 多芸多才な止蔑子は俳譜の傍 ら、かいぎやく、滑稽な感想 を詠んだユーモアな短歌であ るこの狂歌にも手をつけたの である。 当時は、江戸崎の緑樹園元 有が地方におけるこの道の大 家で門人も多かった。 止幾子もその門下で、号を 養老舎瀧女と称し、行商のつ いでに諸方の同志と往来した。 緑樹園は、本姓を小林、通 称を平七郎と呼び、字は隣郷、 別号を桜町とも称した。狂歌 を有名な江戸の宿屋飯盛-六 樹国石川雅望に学んだ。飯盛 は萄山門下の大家であり、そ の門下の緑樹囲また篤学の士 であった。緑樹園は、四方に 遊歴したらしく、止幾子のと ころにも、しばしば訪ねてき たということである。 弘化三年の狂歌の詠草の中 から止幾子の狂歌を拾い出す と 窓外蛍 文このむ 窓に飛びかふ 夏虫は 見ぬ世の友の 玉かあらぬか という作品である。 しかし、止幾子は、この狂 歌の妙境にいたらないうち に、やがて漢詩の詩作や敷島 の道と称された和歌に転向し ていったのである。 止幾子が始め、俳語を学び 次いで短歌形式から派生した 日本独特な文芸 (二人で三十 一文字の和歌を上の句と下の 句とに分けて詠んだ) である 連歌や狂歌に入り、さらに四 十歳頃から漢詩にまで、学問 の領域を広めていった。その 後、四十六歳の頃にも積極的 に漢詩をつくり、その求めて やまざる学びの道への精進ぶ りには、唯々、敬服させられ るばかりである。 漢詩は、中国漠代の詩で、 一般に中国の詩といわれ、一 句四言、五言または七言を普 通とし、それをまねて作った 中国風の詩である。当時の女 性としてこの道に入ったのは 殆ど例をみないのである。 止幾子は、早くから漢書を 読んでいた結果、自然と漢詩 に親しみをもち、多くの詩篇 がある。それらのうち、安政 四年、五十二歳の京都行きの 前々年で引続き私塾の経営に 従事していた時の詩作した漢 詩をあげてみる。 山家立春 梅花紅白両枝新、 ) 鴛声奏曲山家春、

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