広報かつら No.329 1997(平成9)年 10月
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…津川卓毒と黒澤止養子… ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 篤学の人 黒澤止幾子 (その二)① -歌道や和漢の学をきわむ- 加 藤 太一郎 止幾子の行跡をみつめて、 その業績や功績を辿ることも さることながら、本人自身が 如何に生きたかにスポットを あててみることも、その人と なりを知る上で極めて大切な ことであろう。不遇な境遇に おいて、よく働きながら多く の障害を克服し、ひたすら向 学の心を燃やし、刻苦勉励し 続けた止幾子の生きぬいてい った姿勢を傍観祝したり、忘 却してしまうようなことであ ってはならない重要な側面で はないだろうか。 止幾子は、生まれて間もな い二歳のとき、父と別れ、祖 父と母に養育されていったの であるが、頼りとしていたそ の祖父とも十六歳で死別した。 母と二人で農をやり、細々 と家政のきりもりもしていか なければならないということ になってしまった。 そんなとき、幸いにも那珂 郡小野(現那珂郡大宮町小野) の南窓院の助伝法印が、黒澤 家の宝寿院の院務を手伝って くれることになり、全くの救 い主であった。しかし、それ から十五とせの星霜が流れ、 止幾子四十九歳のとき、はた また支えとなっていた義父 (助信法印)も他界し、次か ら次へと不幸が覆いかぶさっ てきたのである。その上、経 済的にも決して裕福な生活が できた状態ではなかったが、 そうしたことで止幾子は決し てくじけたりはしなかったの である。 時代は徳川幕末の封建社会 -女子の地位は男子にくらべ さんかい て非常に低く、「女は三界(過 去・現在・未来の三つの世) に家なし。」とか「女は父に、 結婚しては夫に、夫が死ねば むすこに従わねばならない。」 という三従の教えが大切とさ れていた。そうした男尊女卑 の社会で、女性は唯々黙々と して牛馬の如く働かなければ ならないという、とても今の 世とは比べものにならない有 様であった。そういう世相と 家庭環境の苦境の中で止幾子 は勉学にいそしんで行ったの である。 止幾子は七歳になった頃か ら、祖父書荘に従って今川状 や実語数、そして大学といっ た学問を学んだのである。 今川状とは、南北朝の武将 だった今川貞世(了俊) が後 嗣とした弟の仲秋にあてた家 訓を骨子とする道徳教科書で あり、学識と経験に富む貞世 が、武家社会にふさわしい教 訓の数々を平易に率直に説い たもので、江戸時代に入って 単独の道徳教科書として盛ん に刊行され、おびただしく流 布した書である。特に「女今 川」は江戸時代中期以降「女 大学」などとともに女性にと って欠かせない教養書に数え られ、これまた広く普及した 本である。 これらの本のほかに「英語 教」といわれる平安時代後期 から明治初年まで広く使われ た道徳教科書(作者不明) で 「山高故不貴 以有樹為貴 人肥故不貴 以有智為貴」 で始まり、五字一句、九十六 句より構成され、内容は幼童 向けの勧学文であり、智と財 とを対比して、後者の財より 前者の智の大事なことを強調 した。この智に至る道程とし て、刻苦勉励して読書に励み 行を勤むべきことを詳細に諭 している。近世になると寺子 屋または家庭教育用の手本と して、おびただしい流布のあ とを示している。止幾子は、 こうした書について教えられ その上、「大学」という中国 らい真 の書で、もともと 「礼記」の 中の一篇であったが、宋代以 後、独立した一書として「論 語」 (孔子の言行や弟子との 問答を記したもので、孔子の 思想を最もよく伝えるものと して、最重要の経典とされる)、 「孟子」 (弟子たちとの言行を 集録した孟子は、人の性を性 善説でとらえ、王道による天 下統一をとく、儒学の代表的 経典とされる)、「中庸」 (儒 しL 教の経典で、子息の著という。 誠の道による人間は天・神の 心、自然の道理との合一をめ ざすべきであるとする説)と ともに四書の一つとして尊尚 された書についても学んだの である。「大学」 の書の内容 について、末子はこの書は、 大学教育の目的を三綱領(明 明徳・新民・止至善) におき、 これを達成する修養の順序と ものをただナ して八条目 (格物・至知・誠 意・正心・修身・斉家■治 国・平天下)をあげ、最終目 標を「己を修めて人を治める」 にあるとした。 このような高度な学問をか なり早くから教授され、よく それらについて勉強していっ ヽノ ( たのである。生来の好学の心 ) が備わっていたとはいえ、祖 父の教えをよく守り、学阻を 積み上げていった。 止幾子は祖父について、こ れらの手習いを通して、人間 として成長していく上での基 礎を身につけていき、それが やがて、自ら求め、学び、考 え、実践する一つのステップ となり、生き方を方向づけた 大きなエネルギーとなったこ とは確かなことである。 祖父の数々の薫陶とあわせ 母の力とその感化が一体とな り、勉学心を生み、育んでい き、童心に立志の念をいだか せたことは想像に難くない。 前述したように、この祖父 とも十六歳のときに死別し、 心の動揺も隠しきれなかった ことも事実であろうが、けな げな止幾子は、いつまでも意 気消沈しているわけにもいか ず、母を助け、家業への協力 もしなければならないと決意 し、一念発起、家業と学問へ の道にひたすら没頭していっ たのである。 それから月日は流れ、三と せが過ぎ、止幾子十九歳の春 を迎え、父の実家の鴨志田彦 蔵将時のところへお嫁にいっ たのである。他家に嫁ぎ、米
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