広報かつら No.328 1997(平成9)年 9月
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時は幕末の動乱期、外艦し きりに渡来して通商開港を迫 り、朝野騒然、内憂外患、一 時が起こるのでないかという 有様であった。水戸藩では、 弘化元年(一人四四) に第九 代藩主徳川斉昭が、寺の鐘を 徴発し、大砲を鋳造したり、 水戸城の土手を強化するなど したことが、改革を喜ばない 門閥家や僧侶の反感となって 幕府を動かしたため、その革 新的な考えと施策を幕府にと がめられて隠居・謹慎を命ぜ られ、領内の士民の間に激し せつえん い雪冤(無実を明らかにする こと) 運動が起こった。やが て斉昭は復権、海防参与や幕 政参与になるなどして、幕政 に関与するが、安政五年(一 人五人) の日米修好通商条約 の締結や病弱な将軍家走のあ とつぎをめぐつて、斉昭の子 (第七子)一橋慶喜をあげよ うとする尊接派(一橋派) と 紀州の徳川慶福をおす彦根藩 主井伊直弼を中心とする一派 の対立が対外問題と相まって 激しい政争をまき起こすこと になった。 井伊は同年七月五日 (陰暦 以下同じ)、斉昭の不時登城 きっとつつLユ を理由に、「急度憤」を命じ、 再び江戸駒込の藩邸で謹慎の 身となった。更に同年八月八 日、条約調印などを専行した 井伊大老の政治を非難する 〞11、 「侃午の密勅」が水戸藩に下る と、井伊は反対者に対する処 罰を行った。いわゆる 「安政 の大獄」 である。 斉昭は 「急度憤」中であっ たが、大老は安政六年(一人 五九) 八月二十七日、それに 追い打ちをかけ、水戸で 「永 蟄居」 (終身幽閉) を命じた のを始め、吉田松陰・梅田雲 浜などの志士らを処刑した。 このような大獄が始まった ころ、錫高野の止幾子は、夜 空に(ほうきぼし)が輝 くのを見て、世の乱れを感じ、 また陸中の神主で志士の小島 春尊という来訪者の話などに ょって、井伊大老の強権政治 や斉昭の処罰を知り、幕政の 矛盾を思い、変革の必要性を 知った止幾子は、憂国の情や みがたく座視してはいられな くなり、老母にその決意を打 ち明けたところ、励まされた ため、安政六年、(一人五九) 二月二十二日、当時としては 老齢ともいうべき五十四歳の、 しかも女の身で物騒な道中を 夜を日についで簸難辛苦しな がら、志す京都へと足を運ん だのである。これには止幾子 の長い間の学問や歌道の精進 によって培われた尊皇憂国の 精神や文人墨客・勤皇の志士 達との交流・そして祖父・義 父・母の感化と斉昭に村する 崇敬の念・幕府の処置に対す る憤激があったと思われるの である。 すこぷ 当時、幕府の警戒が頗る厳 重だったので、身だしなみは 仏者に扮し、笈い笠を戴き、 東海道をさけ、中山道を回り 道して行くことにした。笠間・ 下館・桐生・高崎より信州路 へ入り、善光寺二戸隠神社に 詣で、美濃路から関が原・ 大津・山科を経て、三月二十 五日夕暮れ、京都へ着いた。 錫高野を発って三十四日目で あった。 この頃の京都は天下の志士 各国より集まり、王政復古の 策源地ともいうべき様相を呈 し、物情騒然たるものであっ た。大獄の嵐も吹き荒れ、幕 政を批判する者が次から次へ と括り、江戸へ護送されてい く有様だった。止幾子はかね て聞いてきた常陸の者が泊る 定宿、烏丸通り扇屋に宿をと ったが、常陸の人は発ったあ とで一人もいない。翌日は雨 天のため扇屋に滞在し、かね て考えていた 「献上の長歌」 を清書した。翌二十七日、北 野天満宮に参拝して祈願をこ め、慶円坊という神主を頼っ て、東城坊前大納言総長卿に 和歌の弟子入りして、この公 卿を通じて朝廷へ働きかけよ うとしたのである。しかし、 総長卿は当時、謹慎中のため 座田右兵衛継貞を紹介してく れたので、翌日、座間氏を訪 ね、書いておいた浄書の長歌 を託して扇屋へ帰った。二十 九日には大阪へ下り、八軒谷 の升屋に泊った。時に幕府の 警戒きびしく、朝廷に心を寄 せている総長卿や座田右兵衛 のところへ関東より女子が訪 れたことが知れ、幕吏は伏見 から淀船に乗って大阪へ向か った止幾子を追って、前に那 須で知り会った皮綿屋伊兵衛 方で捕えたのである。京に上 って一週間目の安政六年四月 一日のことであった。 止幾子は、大阪で取り調べ を受けたあと、安政六年四月 十四日、京都に護送され、五 月十五日まで約一か月間、京 都の獄中にあり、その間、厳 重な取り調べを受け、峻烈な 訊問・激しい糾弾を被ったが、 確固たる信念に燃えていた止 幾子は、終始自分一身のまご ころからの行動であるとの主 張は変わらなかった。 その後、江戸で取り調べを 受けることになり、重罪人護 か一- 送の唐丸駕篭に入れられて、 厳重な警備のもと、東海道を 江戸に向かって送られた。駕 籠には 「常州茨城郡錫高野村 の産、俳譜歌道文遣手跡指南 黒沢李恭事とき」と善かれて あって、宿場宿場は見物人で 一杯だったという。その途中 五十三次の宿場宿場において 和歌を詠じ、その所産が今に 残る 「東海道五十三次の歌」 である。江戸では伝馬町の牢 屋に入れられ、苛酷な取り調 べを受けた。この場で吉田寅 次郎(松陰) と一緒になった こともあるという。 結局、止幾子は、背後関係 がなく、純真な気持ちからの 単独行動であることがわかり 疑いは晴れた。しかし「重き 役目の役人の悪口をいったの は不屈である。よって中追放 を申付ける」ということにな った。安政六年 (一人五九) 十月二十七日、約七か月にわ たる拘禁が解かれた。 中追放というのは、江戸日 本橋から五里 (約二十キロメ ートル) 以内の地域、山城国 (京都府中心部を含む南部地 域)、常陸国 (茨城県の大部 ㈹

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