広報かつら No.328 1997(平成9)年 9月
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幕末の女傑 黒沢止幾子 (そのこ -国事に、教育に尽くした人1 加藤 太一郎 時代は幕凍、摸夷か開港か、 動皇か佐幕か、国内は騒然と していたとき、国事に奔走、 勤皇の女流三傑の一人として 挙げられ、、また、寺子屋(私 塾) の師匠、そして学制公布 後、日本初の女性教師として 活躍した高野村(のち錫高野、 現桂村大字錫高野) 出身の黒 沢止幾子がいた。 女流三傑というのは、京都 ほうと・て の津幡相同、筑後の野村望東 平成10年1月から、NHK 大河ドラマ 「徳川慶喜」 の放 送が予定されています。 本村には「女流の三傑」と いわれる黒沢止幾子がおりま すが、慶喜との関わり等につ いて、高久にお住まいの郷土 研究家加藤太一郎さんに今月 号から3回に分けて執筆して いただきます。 いヽ∴-「 卑そして黒沢止幾子(李恭) である。 津幡村岡は、天明六年、(一 七八六) 山城国葛野郡上嵯峨 村字北嵯峨(現京都府右京区 北嵯峨) に生まれた。十三歳 で近衛家に仕え、長じて老女 ただひろ 村岡と称した。近衛忠輿の信 頼が篤く、勤皇党の主君息興 が朝政の要枢を預ると、よく これをたすけた。 尊皇運動に深く理解を示し、 僧月照や西郷隆盛らを助けて 京都町奉行に捕えられた。 安政六年二月、江戸へ送ら れ、八月永押込に処せられた。 三十日間で赦免され、帰洛 したが、文久三年(一八六三) 再び江戸の獄に繋がれたとい う。明治六年(一人七三) 八 月二十三日、八十人歳をもっ て没した。 野村望束尼は、はじめ野村 望東といったが、安政六年 (一人五九)五十四歳で夫に死 別、剃髪して向陵院招月望東 尼と称した。江戸時代末期の 女流歌人であり、また、幕末 志士の庇護者であった。名は かト。文化三年(一人〇六) 九月六日、父黒田 (福岡)藩 士、浦野重右衛門勝幸、母み ちの三女として生まれた。読 書を好み、書を能くし、技芸 ことみち に通じ、和歌を大隈言道に学 んだ。 文久元年(一八大一)十一 月、上京の途につき、師大隈 言道と再会、同時に京都周辺 の時勢の変に触発される。帰 国後、平野国臣、月形洗蔵ら 同藩士はもとより、勤皇志士 と交流した。夫没後、尼とな った。 長州の高杉晋作、対馬の平 田大江などをかくまい、望東 尼も揃えられ、慶応元年、(一 人六五)十月、姫島に流刑と なった。翌年九月、高杉晋作 の指示により、下関の白石正 一郎方へ救出された。同三年 十一月六日、三田尻において 六十二歳で病没した。 次に、旧水戸領高野村(現 桂村錫高野) の黒沢止幾子 (名は 「とき」・「登幾」・ 「登茂子」・「時子」などと表 記される。号は「李恭」) は 第百十九代光格天皇の文化三 年(一人〇六)十二月二十一 日に現在の桂村錫高野に生ま れた。 止幾子の家は、藤原の流れ を汲む家系で、下総国相馬の 城主黒沢玄藩橡頼走の後商で あり、顆澄が止幾子の遠祖と なる。この頼置から頼道・頼 賓・頼隆・頼胤・頼廣・頼重 の六代を経て高山、初めの名 は竹之助といい、その代に修 験道に帰して鷲宮山宝寿院を 継承するに至った。高山は遠 州房と号し、始め鴻巣に任し 後に錫高野に移った。これが 錫高野における今の黒沢家の 元祖で、その子千命また宝寿 院をつぎ、左京房と号した。 弟の包房の子音荘は千命の後 を受けて宝寿院をつぎ、掃部 房と号した。書荘に二男二女 があったが、二男一女ともに 早世したので、長女徳子に婿 養子を迎えた。これが止幾子 の実父将書で宝寿院光仲とい った。止幾子が生まれてまも ㊦え なく故あって離縁し、黒沢家 を去ったので、母とともに生 家にあって幼少の時から祖父 書荘に養育され、数え年七歳 の頃から薫陶を受けて、当時 の教科書であった今川や実語 経・大学なども早くから教え られた。当時の私塾(寺子屋) の家に生まれて、父阻伝統の 教育を受けて人となった。そ の祖父とは十六歳の時に死別 している。 文政九年(一人l一大)、歳 十九の時、父の実家である久 慈郡戸村大字小島(現久慈郡 金砂郷町小島) の鴨志田彦蔵 ( 将時に嫁し、二女をもうけ、 よく夫に仕え、専ら農業に励 み、紅花の栽培などに従事し てきたが、天保三年の秋、不 幸にも若くして夫と死別した。 そのため、二十七歳で二人の 子どもを連れて、錫高野の実 家に戻り、櫛、かんざし等を 行商して家計を助けるかたわ ら、義父助信法師について和 漢の書を修め、文学に心を寄 せていた。始め太田の尾花庵 方居に俳譜を学び、狂歌を江 戸崎の緑樹国元有に、そして 和歌を小島春尊に学んだ。そ して四十歳噴から漢詩をつく っていた。 嘉永四年二八五一)止幾 子が四十六歳の時には、旅か ら旅への行商をして群馬県草 津温泉場本に行ったとき、菊 屋という宿の隠居・権太郎に 請われて、初めて門人をとっ て人の子に読み書きを教えた。 このことは止茂子にとって 新生活への一転期でもあった のである。また翌年の嘉永五 年(一八五二)春二月から約 二年間、錫高野から四キロメ ートル程の塩子(現西茨城郡 七会村大字塩子) において、 土地の有志から懇請され、子 弟の教育に従事することとな った。 (8)
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