広報かつら No.328 1997(平成9)年 9月
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分) への立ち入り禁止という ものであった。中退故になっ た止幾子は、小石川の加藤木 唆里(貴三)方に身を寄せた。 峻里は、孫根出身で在郷中、 止幾子に和歌をすすめた人で あるが、その後永戸藩邸に仕 えていた。母の利与は晴着を 贈って帰郷を祝した。 止幾子は、常陸に入らない で、錫高野に近い栃木県茂木 町に至り、岩船出身の小林兵 七宅に落着き、十二月六日に ひそかに実家へ帰った。郷里 を発って九か月ぶりに老母の 待つわが家へ帰ったのである。 もちろん、公には認められな い生活であった。翌年、万延 元年(一人六〇) の三月三日 に井伊大老が桜田門外におい て、水戸浪士らに暗殺された ことで、事募上公認の形とを った。 同年八月十五日には、斉昭 も六十一歳をもって水戸城に て永眠した。止幾子は父祖伝 来の私塾を始め、明治四年 (一八七こまで足掛け十二年 間、私塾を経営し、近隣の子 弟の教育に当たった。明治五 年五月一日、錫高野村戸長 (今の村長役) 三村太平、副戸 長三村庄右衛門の要請をうけ て、自宅を学制に基づく教場 として開放し、小学校教育を 始めた。六十七歳のときで、 日本における最初の小学校女 性教師第二号である。 翌々年、明治七年(一人七四) 五月には、小学校が他に新設 されたため、教師を辞したが、 従来の私塾は続け、歌道・書 道・漢学などを教え、晩年を おくつた。明治八年(一人九 五)、朝廷より特旨をもって終 身禄(年間玄米十石)を給せ 蟹鰭離婚綱摘削 られたのである。 登幾を得て 抄祢る恵みは ったへ開く 故にだにも えこそ色重ぬ と歌を寄せ て喜ばれた。そして明治二十 二年には水戸に来た斉昭夫人 に初めて謁見がかなった。 明治二十三年(一人九〇) 陽暦五月八日、親族の者や門 弟に見守られて、止幾子は八 十五歳で波乱に富んだ生涯を 終えたのである。没後十七年 経った明治四十年、宮内省よ り従五位が贈られた。 止幾子は、名を求めず、功 を誇らず、ましてや利を追わ ず、一身を挺して事に当たり じ′(すも、 終始一貫、後進の薫陶に尽痔 したことは、永遠の人の鑑と して無限の光明を放ち続ける ことであろう。 錫高野には、止幾子の生ま れ育ち、人となった生家が今 も残っている。 ′l\ 届け出は 画料軸いか 知っててよかった/ 郵毎 か 保険料免除制度 年をとったとき、万が一のとき、頼りとする年金も保険料を 納め続けてこそ、受け取ることができます。 しかし、長い間には納めるのが国難な時期があるかもしれません。 そんなときあなたの年金を受ける権利を守るのが免除制度です。 (10)
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