広報かつら No.307 1995(平成7)年 11月
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私が生まれたのは、終戦の 翌年、東京都世田谷区松原の 都立産院でした。こんな事を 言うと年がばれてしまいます が、当時東京の人は、家は焼 け出され、食べ物も着る物も ありませんでした。 生まれて六才まで住んでい た所は、吉田松陰の墓がある 於陰神社のすぐ真にある下駄 履きアパートでした。六畳一 間に四人〜八人も寝ている人 は沢山いました。トイレは勿 論、炊事場、洗濯場までも共 同で使って に電化製品は殆ど無く、唯一 ラジオを聞くのが楽しみでし た。隣のアパートからは毎日 「美空ひばり」 の歌が流れて いました。子供達は、いろい 平塚奈津子さん (上野・宮内在住) の暦史を持つボロポ ヒューマン都汀ト・…「I削甘谷膵」 新来成育呆の‥つ・多喋川 ・「狛江一心」 ろな遊びを自分達で見つけて 夕方迄外で目一杯遊び、連続 ラジオドラマを楽しみに帰っ て行きます。 私達の遊び場は、於陰神社 の境内が殆どでした。今は、 すぐ側を環七が通り、専の騒 音と排気ガスで、又、廻りに マンションやビルが建ち並び 神社が小さくみえます。勿論 私が住んでいたアパート等は 陰も形もありません。それか ら小学校の六年間は、同じ世 田谷区の代田一丁日と言う所 に住み、中学生から二十二才 までは、母の両親の居る東京 こまえ 都狛江市に居て、その後、結 婚するまでの三年間位は港区 北青山、皇太子嫌がいらっしや る東宮御所のお隣りに居り、 杉並区西荻窪で新生活をスター トし、四年後に東京都日野市 に、やっと小さな家を買う迄、 東京で六回も住いを変えたの で「私のふるさと」と言って も何処を言ったら良いのか分 かりません。 友達が夏休み等に「田舎へ 行く」と言うのがとっても羨 ましく思いました。小さい頃 良く「どうして私には田舎が 無いの?」と言って母を困ら せた様です。 私は山や川、田や畑の田園 ( 風景が大好ぎです。14年前に主人の実家の事情で急にこの種村 に来る事になりましたが、当初の10年は、無我夢中であっとい う間に過ぎてしまいましたが、今は犬を散歩させながら田んぼ の土手に四季それぞれの小さな花が、咲いているのを見るのが 楽しみで、毎日違う夕暮れの空を見ていると本当に「幸せ」 だ と思えるようになりました。 今度は逆に、東京の友達から羨ましがられています。これか らもずっと、この素晴らしい自然を損なわない様に桂村が発展 する事を願っています。 将来の希望に向って頑張ります。 い。よろしくお願いします。 昭和59年11月生まれの10年後の私達です。 下阿野沢 根岸 薗部 愛さん I 下阿野沢 西組3 藤来 竜也.くん 今後とも温かく見守りくださ ヰ川l)●や広報かつら 1t月号÷

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