広報かつら No.278 1993(平成5)年 5月
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g単位で勝負できる作物作り。 いまは10g単位で対抗できる作 物作りをしている。ハーブ1箱 20g、これは栽培技術がいらず 若い奥様がかなり意欲的に栽培 している。ハーブは10年前より 100品目の試験栽培で、現在25品 目の出荷を行っている。ほかに ハープの花のパック詰め10g〜 15g=クレソンl箱70g・グラ ッサム20g(梅・すもも・梨等 徒長彼の菅を7Cmに切って出荷 する。四季折々の花を出荷する のがポイント。利用には箸置き やワインの中にいれる)軽労働 の重視と輸送の軽さを求めてい る。一人で3aの栽培をし、120 万円〜180万円の収入があるので 10aで棚方円〜600万円の収入が ある。こんな栽培ばかり行って いるので大山町では広い耕地は いらない。 高付加価値販売、付加価値を 高めるため加工も行う。加工に は惑い品物を使って加工Lても 売れない、最高の品物を使って 原形を残した加工で高く売る。 いい品物を作る。これがメンタ ル農業である(心のかよった、 愛情を注いだ品物作りがメンタ ル農業であり、これには土作り、 肥料作りがかかせない)。 産地間競争、梅の場合いまま では和歌山県が競争相手だった が、これからは外国との競争な ので同じ単価では負ける。人件 費の違いで安く売ればやってい けない。いまは健康を買う時代 なので、栄養のあるうまいもの を作れば単価を高くしても売れ る。それには土作り、肥料作り が大事であり、メンタル農業が 非常に大事である。 新しい町づくりは人づくりか ら(人が人をつくることはで きない) 「若者の芽が育つ環境づくり」 現状を壊すことが町づくりの 第一歩。と言うことで発想の転 換を図る。町づくりのために3 つの追放を行った。 ①530頭の牛の追及 ②田の追放 ③明治生まれの(考え)追放 NPC運動を始める前に6年 間の研究期間をおいた、秋田県 以外の全国と国外16カ国を視察 し梅と実の栽培に結論がでた。 なぜ梅と薫か 栗は栽培に簡単、当時は貴重 な品物だった。栗は秋の収穫で あるので春から夏にかけての収 穫のものが必要で梅を取り入れ た。 ′( 梅は栽培が簡単、これからは おかずが肉中心になりアルカリ 性を必要とすると言うことで梅 と栗を進める。苗木代÷を補助、 田畑に植えればさらに÷を補助 苗木代がただになった。道のな いところに植えれば、役場から 重機を出して作って上げましょ う。抽代だけ負担して下さい。 実に町捻予算の7割を梅葉に使 った。これを3年間続けた。 第一次NPC運動(所得の追 及)を始めた。 「梅、栗構えてハワイへいこう」 と、生産者に夢を与えたととも に役場にAP部隊を組織し、土 曜日以外は梅栗農家の手伝いを させ美。それで10年目でやっと 実を結んだ。 第二次NPC運動(人づくり) を始めた。 人づくりのため沢山なイベン ト.を開催し、人と人とのふれあ いの場を設けた。また、海外研 修を実施し、イスラエル3ケ月 70名、ハワイ別名、中国別名、 オーストラリア(青少年)、マレ ーシアへ派遣、町と農協、商工 会が経費を負担し一切の報告、 復命書を必要としない、3ケ月 位で外国がわかる訳がない、い つか分かる、10年後に分かる、 その時に活用すれば良い。現在 パスポートを持っている町民が 1600人、3・5人に一人全国一 の保有である。農村にあっても 都市並の快適な生活を目指すこ とで、 第三次NやC運動(環境づく り)を始める 有線テレビを昭和62年に始め、 役場にスタジオと中継車2台を 持ち情報の提供をしている。 梅については、量の日本一よ り技術の日本一を目指し、今度 は日本一の梅干し作りをし、個 別販売を行う予定。良い品物を 作るため、梅は一農家3反まで。 すももは一農家2・5反までの作付 しか認めない。その他梅林を実 際に視察。 熱心に研修する参加者 (大分県湯布院町役場会議室にて) 大分県満祐鹿町 世帯3、654戸、人口12 111人、就業割合は第一次17 %、第2次13%、第3次70%、 観光客年間370万人、宿泊客年間 77万人、7割から8割は福岡、 東京、大阪の若い女性である。 3ケ所の温泉に用件の旅館で5 000人の宿泊客が収容できる。 企業等の保養所91ケ所ある。温 泉は胃腸病の特効薬として全国 各地に宅配されている。土地は 宅地2■4%、田畑7%、山林原野 87%、その他3・5%である。国立 公園として第一種、第二種の拍 定を受けている。リゾート法に よる民間開発によりログハウス (土地付き)7000万円、洋 風は3憶〜4億円で東京、大阪 方面の方に完売である。昭和27 年由布院地区にダム建設の話が あり、当時青年団が反対運動を 行い撤回させた。30年当時の青 年団長が合併後の初代町長にな り、公民館活動を活発に行うと ともに産業、温泉、自然の山野 の3つを統合し、ダイナミック に機能させるとして健全な温泉 地つくりが始まった。 34年に国民保養地の指定を受 け、九州横断道開通と共にこれ により観光の幕開けとなった。 議広報かつら 5月号弦楽(4)託

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