広報かつら No.232 1989(平成元)年 7月
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嘉嘉栄光詫※#党費嘉或発光罪業繋諜諜嘉駐露認諾喜韮義認韮芸岩詫韮芸岩詫ふるさとだより 7月号聾策謀韮滋 黒沢止幾子(李恭) 止幾子(李恭)は文化三年十 二月二十一日(一入〇六年)錫 高野に生まれ、明治二十三年五 月八日(一八九〇年)八十五歳 をもって没した。幕末国事多難 のとき、京都の津幡村岡、筑後 の野村望東尼とともに「女流の 三傑」といわれている。 止幾子は女の身でありながら 時局を憂い、藩主斉昭公の無実 の罪を訴えるため単身京都に上 る。当時五十四歳の止幾子は、 安政六年二月二十二日郷里を立 って、笠間、下館、高崎より信 州路へ入り、美濃路から閑ケ煉、 山科を経て三月二十五日京都に 着いた。東城妨前大納言、座田 右兵衛を頼って天朝に奉る浄書 の長歌を献上する。 「千はやぶる、神代のむかし…L に始まる長歌は国を思い、井伊 大老を非難して、斉昭の無実の 罪をゆるしてほしいと訴えてい る。 明治四〇年特旨をもって従五 位を贈られ、学制公布後最初の 女性教師である。 顕 彰 碑

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