広報かつら No.166 1984(昭和59)年 1月
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謀(9)濯誠広報かつら1月号※濯嘉嘉緊縛罵謀儲儲髄髄髄牒髄牒牒慄牒牒儒慄穣牒儲儲儲儲儲儲溺瑞瀾 水上公園に着くまでの間、ま わりを見るとレンガ造りの家や、 バラック造りの家が多く日本で は何十年も前のような風景です。 しかし道路だけは日本の倍ほど の広さで、とても整備されてお り、ガードレールのかわりに道 路の両側には、ポプラ、柳の木 が植えてあり、木の下から一メ ートル位いまで白く塗ってあっ で、夜でもわかるようにしてあ ります。 色々と廉いでいるうちに水上 公園に着き記念植樹をし、公園 のまわりを見ると日本の倍位い 広い地域ですが、日本の公園の 様にきれいでなく、野原のよう な所です。公園でパンダを見て すぐに天津ホテルに向かった、 まちにまった中国料理の昼食で す。天津料理は六種類程度出さ れ、ビールやジュースは日本の お茶がわりとして出されました。 私が期待していたよりも口に あわなかった。 次に工芸品を作っている工場 を見学に行きました。この工場 はみな手仕事で、タコや掛け軸 を作っています。タコはシルク の生地に張られており、絵はと ても込み入っていて一つを作る のにl盲H位かかるそうです。掛 け軸に描く絵は最初適当に書い ているように見えたが、出来上 った掛け軸はとてもすばらしい ものです。中国人の場合日本人 みたいにせっかちでなく、ゆっ くり っている様に見うけられました。 夕食は天津分社によって、私 達を歓迎してくれました。その 後京劇を鑑賞しました。この京 劇を演じる人は、小さいうちか ら訓練をしていると言っていま した。この京劇は日本では見る ことが出来ないほどのすばらし い劇でした。 六日目は列車により北京へと 移動しました。中国の列車は椅 子が硬くて乗っていておしりが 痛くてしょうがありません。9 時に北京に到着、駅は階段が少 なく坂になっています。日本も この様な駅にしてほしいと思い ました。又、北京は現在あちら、 こちらで工事が進められている ので、これからますます発展し ていくと思います。 天安門広場ほ、さすがに集会 場だけあってとても広く、壁新 聞などを読んでいる人も見うけ られました。広場で私はトイレ に行くとうわさどおり男子、女 子共にドアがありません、日本 /′■lヽ では考、えられませんが、中国人 は平気な顔をして使用していま した。 夜は人民大会堂にて夕食です。 夕食の間中国青年団による、形 体模写、中国の歌、その他バラ エティーにとんだ出し物を披露 してくれました。団員達は人民 大会堂に入れたこと、そして青 年との交流にとても感激しまし た。 七日目は、私が一番楽しみに していた万里の長城見学である。 ホテルから万里の長城まで約 2時間、長城へ行く間の道は日 本で言ういろは坂の様で、両側 は紅葉しておりSLなども走っ ていて、のどかな風景でした。 長城に着き登り始めましたが、 あいにく小雨が降っていて坂が すべりやすく、急な坂のため途 中で登ることをやめ、まわりを 見ると紅葉がしていてとても素 晴しかった。 万里の長城に雨が降るのはめ ずらしく、雨の万里の長城を見 学できたことほ一生の思い出と なりました。 八日目は北京から天津へバス 移動です。私達のバスには二人 の通訳が乗り、李さんが偶然に も私の隣にすわりました。私は 第二十四回愛の一円玉募金 三万大官入十人円集まる 「愛の一円玉募金Lは、机の 引出しや小銭入などに眠ってい る一円玉を持ち寄っていただき、 子供のしあわせを高めるために 役立てる共同募金運動です。 今年も婦人会の協力により稔 額三〇、六八八円が集まり茨城 県共同募金会へ届けました。 婦人会の役員の皆様大変ご苦 労さまでした。 約四時間、季さんに日常生活の 違いについて話を聞きました。 季さんの場合、休みの日は日 本のラジオ番組や新聞を読んで 日本語を無中で勉強している様 でした。又季きんは、「日本を初 め、アメリカ、その他各国に行 きたいが、自由がないために行 けなくて残念です。日本は自由 があってうらやましいノと力を 入れて言っていました。そうし て見ると私達はとても幸わせ者 だと思います。そして天津港か ら船に乗り込み出航する時は、 とても別れるのがつらくて、目 にうっすらと涙を浮べている人 がたくさんいました。

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